あなたとわたしの距離 2


 最近ではあまり見ることのなかった険しい表情を浮かべるアルスラーンの姿は、エラムを戸惑わせるのに十分だった。
 おおっぴらに喜びを表す方ではなかったが、つい今しがたまでご機嫌だったのは確かだ。だというのにこれはどうしたというのだろう。
 エラムは眉をひそめた。
 公務の間のわずかに空いた時間を二人だけの微行に誘ったのはエラムだった。
 嗜みの少ないアルスラーンにとって、微行は彼の数少ない息抜きのひとつである。疲れのためか数日精彩を欠いている彼を元気づけるには最適だと思ったのだ。
 話を切り出すと彼の口から否やの言葉が出てくることは当然のごとくなかった。夜空の瞳に喜色を浮かべ、それこそ嬉々として身支度を澄ませたのだし、城下に出ればその賑わいに始終目元を綻ばせていた。季節の果実を美味しそうに頬張り、そして菓子も買えたとついさきほどまでは子供のように上機嫌だった。ダリューンの登場は予想外だったが、彼が最も信頼を置く騎士の登場が嬉しくないはずがない。
 気を利かせ早々と二人きりにしたのだが、頃合いを見計らって顔を覗かせた時の二人はとても寛いでいる風だった。減った菓子と茶を継ぎ足しつつそっと伺った様子からは、彼ら二人だけの時にしか醸し出されることのない、満ち足りた特有の淡い空気が四阿を満たしていた。
 ──それなのに。
 アルスラーンの今の顔は微行前の精彩を欠いた顔よりなお悪い。

「陛下、あの‥ダリューン様は‥‥」

 四阿にいるよ。
 返事さえいつもならもっと丁寧だというのに、返ってきた言葉は彼らしくなく随分と素っ気のないものだった。それだけで機嫌の悪さの深刻さが窺えた。
 アルスラーンは四阿から立ち去るところのようだった。庭から回廊に上がる低い石段に足をのせたところで、茶席を中座するのをエラムに申し訳ないと思っているのか心持ち居心地悪そうに見える。
 さりげなく視線を渡らせるとジャスワントの姿が物陰にあった。目が戸惑いの色を浮かべている。エラムを見つけほっとしているようだ。

「すまないエラム。先に部屋に戻る」

 深追いされるのがいやなのか、アルスラーンは言葉少なかった。ジャスワントを呼ぶとすかさず現れた彼を伴って足早に回廊を去っていった。
 その姿を見送ったエラムは騎士が取り残されているだろう四阿へと視線を向けた。
 常であればダリューンはアルスラーンを追いかけそこから出てくるはずだった。異変となればなおのこと。しかし彼は姿を現さなかった。

(あの方はなにをやらかしたんだ)

 アルスラーンは自分のことを「友」と言ってくれるが、エラムにとっては友でもあるが仕えるべき大切な主である。
 数奇な出自がゆえに常人とは違う運命を負い、若くして重責を担うこの青年を年の近さの親しみもあって助けたいと思っていた。その思いはたとえ相手が黒衣の騎士と謳われ恐れられるダリューン相手であっても邪魔されるものではない。
 そんなわけでアルスラーンの憂いの種は芽が出る前に摘まねばならない。そう意気込んで四阿を覗いてみれば、そこには件の騎士がぽつねんと座していた。
 その姿は置いてかれた子供のようでもあり、戦士の中の戦士、猛虎将軍などと猛々しい称号ばかり持つ騎士としてはまるで似つかわしくないその姿にエラムはいっそう眉を寄せたのだった。








 唇はちゃんと音を発しただろうか。言葉は震えてなかっただろうか。

 ルーシャンの言うことは理解出来る。
 しかし承諾となれば話は別である。いかに優れた娘だろうと、見合いをするつもりもなければ娶る気も、今のアルスラーンにはなかった。
 理由について問われた時、人に話すことが出来るものはきちんと答えるようにしていた。それ以外の、人に話して聞かせられない理由については、誰にも悟られぬよう胸の内にしっかりと封をして収めていた。勘が鋭い仲間内にあって、表に出さないよう振る舞うのは苦労がいったが、幸い誰も気づいてないのか言及も今のところ受けていない。
 相手はルーシャンか。それとも別の人物か。
 ダリューンはその相手からよほどしつこく言われたのか。
 ダリューンが切り出したのは、良家の娘たちとの見合いだった。
 なにも今すぐ結婚をしろというのではない。頑にならずともまずは軽く席を設け、見知るだけでもしてはどうかと。それはアルスラーンが晴れてパルス14代国王となってから、ルーシャンはじめ気の早い者たちの間で話として持ち上がり、度々説かれてきているものだった。
 こういう時にはナルサスほど口が達者でないダリューンが、自らこの役を買って出たとは思えない。最初のうち闊達に振る舞いながらも話を切り出した騎士には僅かにためらいが見えた。おそらくどこぞでその一連の誰かに捕まり切々と訴えられたのだろう。ダリューン自身にも矛先が向き、卿はいつ妻帯するのかと汲汲とさせられていたのかもしれない。
 だが最初こそ慎重だったダリューンもアルスラーンが大人しくしていたのがいけなかったのか──。
 彼自身がどうやら考えに勢いがついてきたらしく、近頃妻帯したという部下の話も持ち出してきたのに、次第にアルスラーンの心は冷えていった。
 エラムから誘ってくれた微行、王都の賑わい。淹れてくれた茶と菓子を前にしたダリューンとの久しぶりのたわいのない会話。
 それらによってもたらされていた高揚と幸せでいた気持ちは急速に色褪せ、風に吹かれる砂漠の砂のようにさらさらとどこへといわず散っていった──。
 かわりに沸々と湧いてきたのは、怒りも内包したやるせのない負の感情だった。

『ダリューンこそ妻帯しないのか?』

『陛下を差し置いて臣下が先にするわけにはまいりません』

『堅苦しいことを。私の後などと言っていたら誰も結婚出来なくなってしまうよ。それにその言いよう。聞きようによってはすでに決めた娘がいるようにも聞こえるのだが』

『とんでもない。私に決めた者などおりませぬ』

『無理しなくてよい(いるのであろう、本当は)。苦労をかけてばかりいるおぬしたちには、幸せになって欲しいと思っているのだ。いるならいるで遠慮しなくてよいのだぞ?(絹の国の姫君が今も忘れられぬか?それとも市井の黒髪の娘でも見初めたか?)』

『ですから陛下、私は陛下の志しておりますより良き国造りのお手伝いをするのを今の務めといたしておりますれば、私にはそのような相手は』

(私を言い訳に使うのかっ)

 どれだけそう口にできれば良いか。
 しかし身の内は不穏の感情が腹の底でぐつぐつと沸いていても、それでも胸に秘すと決めた以上、表向きは王として、騎士の主として相応しく、悟られまいと微笑みで返してしていた。自身の放つ言葉は己の首を絞めるばかりであったが良き主であろうとした。
 ──しかし、

『──もしや、陛下には意中の方がいるのではありませぬか?』

(!!)

 ダリューンとしては軽く冗談のつもりで言ったのだろう。
 けして突飛な言葉でもなければ、胸を抉る辛辣な言動でもない。思考はそう結論づけた。
 だがアルスラーンの心は違った。
 どくんと痛むほどに強く鼓動を打った。
 
 誰からも言及されてこなかった分予測していなかった。
 ──いや、言及ならいくらでもあった。ただそれはダリューンではなかった‥‥。
 内側に閉じ込めた思いが俄にひとり意志を持ち、外へ出たいと暴れているようだった。

『──いたとして、どうする』
 
 己の口が止められなかった。
 まさか本当に返事があるとは思っていなかったのか、ダリューンはゆるく口を開け、僅かながら金色の眼を丸くした。それからゆっくりと目元を綻ばせた。 

『それは、めでたきことです』

 ──めでたきこと。

 ダリューンの顔には驚きと喜ばしいという思いが表情として表れていた。それ以外の、アルスラーンが心密かに望むものは微塵も見当たらなかった。

 ──めでたきこと。
 ──めでたきこと。

 わかっていたことだった。
 わかっていたことだったが、実際にその言葉を聞くとわかっていても胸掻きむしるほど辛かった。それでもアルスラーンの口元を飾っていたのはやはり笑みだった。
 とはいえ、それも限界だったようだった。口の端が引きつっていくのをアルスラーンは感じた。

『そうか』

 アルスラーンは立ち上がった。

『陛下?』

 訝しがるダリューンから顔を隠す。引きつる口端を無理に吊り上げた。

『ダリューン。いるからといって、私はその者に告げるつもりは無いよ。もとより誰にもな。これは一生私が抱えていくものだ』

『お待ち下さい、陛下っ。その‥告げぬとは、いったいどういったわけで』

 困惑の表情を浮かべる騎士の姿に昏い喜びが頭を擡げた。その後に己の性根に嫌悪する。

『言葉通りだ』

『しかし──、』

『何度も言わせるなダリューン。これは私だけの秘密。一生誰にも言わぬ』

 ここにきてようやくアルスラーンの様子がいつもと違うと気づいたか。いや己の失態に気がついたのか。慌てて腰を上げ跪こうとするのをアルスラーンは制した。詫びて許しを請う事を禁じられた騎士は膝を折る事もできず立ち尽くした。

『これ以上の詮索は無用。おぬしはついてこなくて良い。ジャスワントがおる』

『陛下っ。このダリューンにもお話し出来ぬ相手なのですか?』

『───』

 背を向けるアルスラーンに再度「お待ち下さい!」と声がかけられる。
 ダリューンの悲痛とも言えるその叫びに、アルスラーンはゆっくりと振り返った。

『──そうだ。言えぬ。ことおぬしにはな』

 その後のことは知らない。



 ダリューン。
 私の心を奪っておいて、
 いずれ絹の国かどこぞの女性をおぬしは娶るのだろう?

 気遣わしげな視線を送って寄越したのは、二人を慮って距離をおいていたジャスワントだった。

















「私は至らぬな‥‥」

 一人、ようやく自室にたどり着いたアルスラーンはここにはいない相手に向かってぽつりと呟いた。


 大切な騎士に対しての王らしからぬ狭量な振る舞い。みなのために、ダリューンのためにもより良き王になろうと己を律してきたのに、今さらながら情けなさと我が心の至らなさに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。反面いくら心に蓋をしようとも、相手がダリューンというだけでこうも簡単に蓋が開き、心乱されてしまうが現実。想いの深さを本人から知らしめられて絶望する。そして掻き乱されたことによる怒りはまだ心の奥底に沈んでおり、ともすれば大切な騎士に向かおうとする。

(とんだ言いがかりだ。ダリューンは何もしておらぬのに)

 ダリューンが奪ったのではない。己の心が勝手に慕情を生んでしまっただけだというのに。

 人を好きになるとこうも世界は違って見えるものなのか──。

 相反する感情が身の内に起こす狂おしい波に立っていられずアルスラーンはその場に座り込んだ。


「‥痛いなぁ‥‥」

 口元を歪め、胸元を押さえた。

 







3