土曜の朝は
遅い朝の涼しくも爽やかな風が、緑の香りをのせて室内をひと駆けした。
風の悪戯で髪が舞い散る。
シャアは乱された髪をかき上げると、風の後を目で追った。
風が逃げていった全開にした大窓からは、バルコニーの欄干が見える。
そしてその欄干に腰を下ろす一匹の白い猫。
全く動かない姿はまるで置物。装飾の一部であり、魔除けのガーゴイルだ。唯一彼の長い尾だけが、くゆりくゆりと勝手気ままに揺れている。地球の青い空と海。そして大地の緑を見たいんだ──。
シャアはその小さな後ろ姿を見つめた。
幼少期を地球で過ごしたというアムロは、そんな言葉をよく口にしている。こうして朝の爽やかな風を受けている今も、シリンダー内の作られた空の先に地球の 青い夢を見ているのだろうか。
地球で生まれたと言うアムロ。それが本当なら彼は随分裕福な家庭の出身であるはずだ。
それこそそんな連中は宇宙に出たがらない。ましてやコロニーに住み、あまつさえ地球政府からの独立を掲げる急先鋒の自分に近付く筈はないのだが。
それもアムロの奇矯さゆえだろうか。
シャアは小さく溜め息をついた。
地球の汚染は今も確実に広がっていて、アムロが見たという青い空は、今も昔も彼が言うほど透明ではない。豊かな緑どころか小さな森ですら、今では人の管理 でかろうじて守られている危ういバランスの星だ。豊かだというのなら、今は火星の方がはるかに地球のそれを凌駕する。
アムロがそれを知らないわけがないのだ。
それなのに頑にそうあるべきだと信じるアムロ。彼が執着せずにはいられないその何かに嫉妬する。
地球を飛び出し、流れ流れてこのコロニーに辿り着いた───。
ならばいっそ自分にこそその執着の強さを向けて欲しいと思う。置いてきた星に固執するのではなく。それなのにアムロときたら‥‥‥。
自分があのシャア・アズナブルと知ると、多くの輩が態度を一変させる中にあって、アムロだけがサイド7で拾ったあの頃から変わらない。
相変わらず口は生意気である。態度は不遜で気紛れだ。優しく伸ばしたシャアの手を、気に入らなければぴしゃりとたたき落とす。いったいどこでそんな性格に 仕上がってしまったのだろう。
猫がアムロに似たのか。それともアムロが猫に似たのか。普通なら後者を取るところだが、アムロの場合は怪しいものだ。
まあ、媚びを売らないその姿もまた彼の、シャアを惹き付けて止まない魅力でもあるのだが。
これも惚れた弱味と言うやつか。
一匹の猫に振り回されるなど、我ながらとんでもない相手に捕まってしまったとしか言うほかない。(この私に愛されるなど、そうあることではないのだぞ)
だが、そう言ったところでアムロは歯牙にもかけないにちがいない。むしろ小馬鹿にするだけなのだ。
手に取るように分かってしまう恋人の、つれない姿にまた溜め息をつきたくなる。
その虚しさに追い討ちをかけるように、つい自身の頬を撫でてしまった。まったく‥‥‥。
撫でてしまってからではもう遅い。
朝からいったい幾度、化粧の出来を気にする女のように、この頬を撫でるという得にもならない行為を繰り返しているだろう。
だが今は仕方がないのだ。
昨晩の騒ぎの結末が、腫れとなってそこにあるのだから。
痛みは夜のうちに引いたものの、手加減無しでアムロに殴られた頬はまだうっすらと変色を見せ腫れている。(あれほど顔には傷をつけるなと言っておいたにもかかわらず‥‥‥‥やってくれるのだからな)
昨夜シャアは身辺警護を理由にアムロを呼び寄せ、そのまま寝室に引き入れようとしたのだった。
はじめこそ嫌がり抵抗を見せていたアムロだったが、ベットに投げ出されたところで彼も観念したらしい。ようやく自分の言う事を聞く気になったのかと、しお らしくなったその姿にシャアもつい気を緩めた。その瞬間、まさに必殺の一撃とも呼べる手酷いしっぺ返しをシャアは頬に受けてしまったのだ。
見事としか言い様のない彼の豹変ぶりだった。力仕事は不平不満のあのアムロのどこに、あれだけの力があったというのか。怠惰な風を装って、実は体力温存し ていたのか。正真正銘猫ではないか。
確かに非が自分にあることは認める。が、しかしここで素直にそれを認めてしまって良いものなのか?(確信犯め‥‥)
総帥という立場上、シャアの顔は商売道具だ。それをあえて顔に絞ったのは、おそらく今日がシャアのオフ日と知ってであって、アムロもわざと やったに違いないのだ。おかげで今日は一歩も外出出来ないばかりか、朝早くからナナイに白い目で『あらっ』などど睨まれてしまった。
それにあの時アムロは最後に何と言って出て行った。
そう、『男はデリケートなんだからな!!』とほざいたのだ!!
ではその男のデリケートな箇所を、どさくさに紛れて蹴飛ばしていったのはいったいどこの誰だというのだ。(もし使えなくなったらどうするのだ。私も困るが、困るのはお前もなのだぞっ)
アムロがもう少し優しく素直で、そしてシャアに甘えてくれさえしたら──。
(それこそこれ以上ないというほど、愛してやるというのに‥‥)
温もりをねだる心を包み込む自信はあるのだ。
「‥‥‥‥」
シャアは自嘲するように笑った。
アムロに出会って、自分の情の深さを思い知らされた。
その思いが時折怖くもある。‥‥‥‥私は馬鹿か‥‥
目の前のソファには意識が抜け出し殼となったアムロの身体が横たわっている。
一見眠っているとしか見えないその姿は微笑ましくもあるが、襟元を広げ、親衛隊の制服を着崩した姿は見ようによっては退廃の艶も纏わせている。
反応してしまいそうな自身に昨日の今日だぞと呆れつつ、先ほどからすっかり止まっていた作業にシャアは意識を集中させた。
にゃ‥‥
すっかり作業に夢中になっていたシャアは、チクリとした微かな痛みをズボンの生地越しに足首に感じた。
一瞬何事かと思ったが、しかし我慢出来ない程の痛みでもない。作業は中盤も越え、波に乗ったちょうど良い頃でもあった。痛みをシャアは無視した。
しばらくは何もなかった。「ッ」
次の痛みは不機嫌そうな鳴声と共に襲ってきた。痛みも先ほどより鋭く思わず足を強張らす程。
しぶしぶ手を休めたシャアは身を屈ませると足下を覗いた。すると先刻まで外を眺めていた筈の白い猫がシャアの足下にうずくまり、ガラス玉のような瞳でじっ とこちらを見上げていた。にゃあ。
シャアが気付いたと知ると、白い猫は身体を起こした。そしてシャアの足に白い身体を擦り寄せる。それから両の足の隙間を巧みにすり抜けては 同じ仕草を繰り返した。
足の痛みは、この成長途中の小柄なオス猫に噛みつかれたもの。「こっちを向け」という、それは彼の合図なのだ。「どうした」
だから問い返せば、当の彼に用はないのだ。用はないから返事はない。自分はシャアを無視するくせに、こちらが無視するのは気に入らないの だ。
とはいうものの、彼が完全にシャアを無視しているかといえばそうでもない。
返事こそないものの、今もアムロはごろごろと喉を響かせシャアに纏わり付いている。
もっとも今の彼の行動は、アムロというよりAMUROの本能と意識なのだろう。一人と一匹の意識はこの時点で半ば同化しているのだ。おそらくアムロ自身は 今の行為にさほど気付いていない筈である。もしこの行動に気が付いていたら、今頃彼は憤慨しているにちがいない。
それでもこうして甘えてくれる姿には、その容姿も相まって愛しさと嬉しさが込み上げる。「なににやにやしているのさ?」
「いや。べつに」
シャアがそう答えると、むにゃむにゃと子供の寝言のような呟きが聞こえた。「また‥‥なんだ」とか、「どうせ‥‥」といったシャアに対する ロクでもない御託をまた並べ立てているのだろう。
「退屈なら戻るか、アムロ」
自分の身体に。
「シャアがこの部屋から出てくれたら」
「‥‥‥何度も言うようだが、ここは私の部屋なのだが」
また主人が気兼ねして出ていくのか。
その生意気な口をきく彼の身体が、シャアの想像の中でいったいどんな目に合わされているか、アムロは考えた事があるだろうか───。
いつか思い知らせてやりたい気もするが、その時アムロはどんな態度をシャアに見せるだろう。
どうやら自分より幾分年下のこの青年は、シャアの奥底に眠る獣性を刺激するらしい。
だいたいが猫に憑依していること自体インモラルなのだ。猫であるアムロは今素っ裸。惜し気もなくそれを晒していると考えたらどうだ。なかなかのものであ る。
いつか首輪でも送ってやろうか。「なんだよ」
そうとは知らないアムロはつんと取り澄ました顔で優しく微笑むシャアを見上げていた。
「凄んでみせても、そんな子供の声では恐ろしくもなんともないぞ」
その言葉に再び悪態をついているアムロをシャアはそっと持ち上げた。脇を抱えられてだらりと下に伸びきる姿は、間が抜けていてなんとも可笑 しい。
おい、と再び不機嫌な声に急かされて、シャアはソファの自分の隣に優しくアムロを降ろしてやった。すかさずアムロは身体を振るわせ手際よく毛繕いを始め た。そして人心地つくとシャアの顔を見つめた。「それで順調?」
「学生の頃の手慰み程度だから大したものじゃない」
「そう言われるとますます見たくなるんだぜ」
そういう頃にはすでにアムロはシャアの腹部によじ登り、身を乗り出してその出来を吟味していた。しかしその後はやけに大人しかった。そして しばらく無言でいたかと思うと咳にも似た短いため息をついた。
「‥‥‥‥俺、あんた嫌いだ」
「おもむろに何だ。傷付くじゃないか」
「勝手に傷付けばいいだろ。何が手慰みなんだよ、上手いじゃないか」
そしてシャアの膝上にあるスケッチブックの片隅をぱたと前足で叩く。
アムロが指したその白い紙面には、鉛筆で描かれたモノクロのアムロが気持ち良さ気に眠っていた。「なんでも持っている男は嫌われるぜ」
「顔良し、スタイル良し、頭脳明晰で地位も名誉も財産もある。このうえ他にも才能があるからか?」
「勝手に言ってれば」
アムロは紙面に写された自分の顔を鼻先を擦り付けるようにして見つめた。
「俺ってこんな顔してるんだ」
「なかなかのハンサムだろう」
「あんたに言われても嬉しくない」
「それは悪かったな。お前こそ自分の顔など鏡で毎日見ているだろう。なんだったら本人がそこにいるんだ。良く見るといい」
「いいよ。自分の顔を見て喜ぶ趣味はないんでね」
「そうか。では私がその分堪能しておこう」
「‥‥‥おい」
「まあ多少は相違あるだろうな」
「そうなのか」
「絵というものは描き手の癖や心象も少なからず入るものだ」
「じゃあシャアが俺に持つイメージってわけか」
「そういう事になるか。もちろん一概には言えないが」
シャアは口を閉ざすと最後の仕上げに手を入れ始めた。
迷いのない運びで更に描き込まれていく紙の中のアムロはいっそう存在感を増し、朝の淡い陽射しを浴びながら夢の中に微睡んでいく。
場所を移してアムロはその様子を見つめていた。「そろそろ身体に戻ったらどうだアムロ」
「‥‥‥ん」
ソファの背もたれに後足をかけ、シャアの肩に身体を預けながら大人しくアムロは答えた。
アムロの肌を良く知るその手が、何もない紙の中にもう一人のアムロを作り上げていく‥‥‥。
今のシャアは絵を描く事に楽しみを感じているようだが、アムロも設計図を作図している時楽しさを感じる。アムロがその時感じていると同様のものをシャアも 感じているのだろうか。(‥‥‥‥‥)
アムロが感じるそれとは違う気がする。
ちらりと覗いたシャアの眼差しは、真剣そのものだが中に嬉々としたものを忍ばせている。昨日アムロが殴った痕も、今は全く忘れているようだ。
セットをしていないシャアの髪を、アムロの目の前で風がさらっていく。
絵の中のアムロを見ていると、自分まで微睡みに引き込まれてこのままシャアに凭れて眠ってしまいそうだ。「今夜、君が来てくれることを私は期待しているよ」
「‥‥‥‥‥どーしてそーゆーこと言うかなぁ」
さらっと。
まだ午前中なのに。
もうすぐ午後になるけれど。
それに自分はここに、シャアの肩にいる。どうして絵の中のアムロに話しかけるのだ。
アムロがそう思った矢先、シャアが僅かに首を傾けこちらを向いた。「そろそろ昼食だ。眠らないでくれよアムロ」
アムロをひと撫でしたシャアは、そしてぱたんと絵を閉じてしまった。
アムロは完成したと思っているようだが実は絵は未完成だ。
完成してしまうと情が移る。移ってからではこの絵を破る事など出来ないに違いない。
アムロのいないところでシャアはこの絵を破り捨てるつもりでいた。アムロの身を守るためにも、この穏やかな時間を守るためにも、自分との関係を窺わせるも のは今はまだ残せない。
アムロ。
君は私に甘えたいのか?それとも私に甘やかされたいのか?
猫から人へ──。
眠りから目覚めたアムロが大きな欠伸を見せていた。
- 土曜の朝は -