= しゃぼん玉 =
前からも後ろからもくすくすというくすぐったい声が聞こえる。
皆が皆香水をつけているわけでもないのだろうが空気が甘ったるい。
知らない世界に足を踏み込んだようで、俺は居心地悪く背を丸めた。
「ごめんなさいね」
珈琲を運んできたマスターがそう言って俺に声をかけてきた。
彼女が姿を現わしたことで俺は知人を見つけたようにほっとした。昨日までは赤の他人。今日もそれ以上ではないのだけれど。
「この時間帯はね、いつも大抵こんな感じなの」
俺の耳に小声で囁く。
「はあ‥‥」
俺は気の抜けた返事をすると、彼女の影から店内をこっそり覗き見た。
席を埋め尽す、とまではいかないが高校生から俺より年上だろうという幅広い年齢の客がそう広くはない店内を賑わせている。
男は俺一人。そしてそこにいるのは全て女ばかりだ。
「いつもこうなんですか?」
こそりと耳打ちすると彼女は頷いた。
「他の時間帯ならこんなことないのよ」
暗にこの時間を避けた方が良いと彼女は言っているのだろうか。
でも、それでは俺は困るのだ。
去っていく彼女を名残惜し気に見送りながら、俺は窓の外に視線を移した。
外は今日も雨だ。朝から良く降る。
季節がそうなのだから仕方ない。
俺の座る席からは昨日と変わらない通りが見渡せる。
昨日と同じ席。柱時計の指す時間もあの時と同じ。
ただ緑の壁越しに見える通行人の顔だけが昨日と違う。
それが俺の不安を誘う。
あの、青い瞳──。
来るだろうか。
一瞬だけしか会えなかったあの男。
鬱陶しいだけの雨。出無精で、これ幸いにといつもなら丸一日家に閉じこもっているというのに、俺は急き立てられるようにこ
の喫茶店に足を運んでいた。
大振りの窓から見える緑は新鮮で瑞々しい。雨が降っているのだから当然空は曇っているのに。その対比を見ているうちになんだか悲しくなった。
四方から来る視線が痛ような気がするのは俺の気の所為だろうか。
ここからは通りが良く見渡せる。一番と言っても良い席を俺が取ってしまったからだろうか。
新参者はお断り──。
彼女達だけの暗黙の了解があるようにも思えて、ますます俺の気持ちは消沈した。珈琲を飲んで気を紛らわせる。手持ち無沙汰のこの時間が辛い。
その時俺の席の後ろの少女が、あっと小さな声を上げた。
俺は反射的に顔を上げ、通りに視線を向けた。
来たっ。
昨日と同じ黒い傘。
隠れて顔は見えないが、嫌味な長い足は間違いない。
あの男だ。
男はゆったりとした足取りで店の前の通りを歩いていく。そのまま行ってしまうのだろうか。
俺を見て欲しい。昨日のように。
黒い傘が僅かに持ち上げられて、男の端正な顔が覗く。
そしてさり気ない仕草で店の方を、俺の方をすいと見る。
たった一瞬だけ。
けれどたったそれだけで、俺は体中から力が抜けていくのを感じていた。
‥‥あぁ
店のあちこちからそんな溜息が洩れていた。
珈琲の香りが店内を満たしていた。
今日はクラシックが静かに流れている。
先ほどまでの彼女達と入れ替わるように、店の中は珈琲好きらしい客がちらほら席に着いている。喫茶ファンには珈琲の旨い隠れ家的存在としてこの店は知られ
ているようだ。彼女曰く紅茶もお薦めということだが。
きっと珈琲好きの客から見れば、昼下がりに飛び込んでしまった俺は哀れな男であり、彼女らからすると一等席を占領するいけ好かない男だったに違いない。
──そろそろ混んでも良い時間なのだけど──
彼女の言った昨日の言葉の意味。
合点がいった。
昨日恋を知ったばかりの俺は、今日たちまちにして失恋の道を駆け登っていた。
ライバルはあまりにも多かった。
と、いうより、
俺なんて‥‥
そんな気分だ。
はぁ‥‥
俺は溜息をついた。
幸せが、パチンと弾ける音がした。
- しゃぼん玉 -
Q:一回こっきりの話だったのでは!?
A:だって‥‥(ぼそっ)張った伏線が活きないんですもの
Q:そんなミラクルな伏線が!?
A:いえ‥‥たいしたものじゃないんですぅ
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