= 紫 陽 花 =
「コウ、この本貸してくれよ」
俺の指し示す本を見て、コウは「えっ?」とあからさまに怪訝な顔をした。
「この間借りてったやつだろソレ。読んでないのか?」
「読んだよ。途中まで」
「‥‥‥‥読んでないのに返しに来たのか?」
「だからまた借りるんだろ」
近付いてきたコウは俺の顔を覗き込むとまじまじと見つめた。
「毎日毎日毎日毎日、お前何しに俺んとこ来てるんだ?」
「本借りに」
「‥‥‥うちは貸本屋でも図書館でもないんだけど」
コウが溜息つくのに俺は腕の時計で時間を確かめた。もう行かなくては。
「いいだろ。減るもんじゃない。それに毎日ってわけじゃない」
確かに昨日は来たけれど。
「そういう問題じゃないだろ」
「コウも俺のとこの資料を借りに来るじゃないか」
「そう言って俺のとこから借りていってそれっきりの本が、いったい家には何冊あるんだ?そして今度は読み終えてもいない本を毎日毎日とっ換え引っ換えか」
「そのうち何かで穴埋めするよ。忙しいからまたな」
「またなって、明日も来るつもりじゃないだろな!?」
俺は引き止めようとするコウを振り切りアパートを飛び出した。
「俺だって忙しいんだぞっ!!」
もう貸してなんかやらないからな!
背後でコウが怒鳴っていたが、俺はもう駆け出した後だった。
失恋を予感したその翌日から、俺は時間が来るまで一人の客として本を片手に店で過ごし、その時が訪れると店を出てただの通
行人を演じていた。
自分でも何故そんな事をしているのか良く分からなかった。ただ焦がれる気持ちが焦燥感となって俺を苛んでいた事は確かだ。そして店の中で女の子に埋もれて
見ていられるほど図太くもなく、同類とみなされるのもごめんだった。
俺は読みかけの本を閉じると会計を済ませて店を出る。
すっかり顔なじみとなったマスターが、レジの向こうから優しい笑みで俺を見送ってくれる。それを見る度に、「どうして彼女じゃないのだろう」と俺は首を捻
りたくなる。そうすれば俺はこんな掴みきれない思いに翻弄されなくて済んだのだ。人に合わせるのも振り回されるのも得意ではない。そのツケが今になって一
度に押し寄せてきたようだ。
恋ってのは厄介だ。
一度はまると相手が誰であれそんな事はどうでも良くなってしまうものらしく、男が通るだけで俺の視界は総天然色映画のように色鮮やかになってしまう。
毎日ほぼ定刻通りに男は現れる。
擦れ違う一瞬だけ傘の中にちらりと顔を覗き見る度に、俺はこの男に恋をしているんだとあらためて思い知らされる。認めたくはないけれど擦れ違うときのとき
めき感は本物だ。
一日にたったの一度。それだけで俺の一日はかけがえのないものになる。会えない日は落胆と、明日は会えるだろうかと一日そんな事ばかりを考えている。そし
て声を掛けられるかもしれないと夢想する。
本当に何をやっているんだろうか俺は。我ながら健気過ぎやしないか。
俺と入れ代わりに若い女の子が店の中に入っていった。
彼女達からすると俺は完全なる部外者だ。
俺も男なのだからその時点でおそらく同類とみなされていないだろう。それは有難くもあり同時にどこか後ろめたくもあった。
止みそうで雨は止まない。
店の生け垣の紫陽花が青い花をつけ始めていた。水を含んだ瑞々しさは男の瞳を思い出させる。間近で見た事もないというのに。
連日雨日和が続くとさすがに嫌気がさしてくるが、陽射しの下で男の顔を直視する勇気はまだなかった。
背は男の方が高い。密かに気にしていた自分の背の低さがこんな所で役にたった。反対だったら背をかがめて傘の下を覗き込まなくてはならないだろうからそれ
は大きな問題だ。
しかしここ最近は刻々と時間が迫るのに合わせて俺の機嫌は悪くなるばかりだった。
もう何度こうして擦れ違っただろう──。
たとえば毎日乗る通勤列車。たとえば毎日出会う車。店の中。赤の他人でもそれが繰り返されれば互いに気付いて視線を交わす事さえあるというのに、それなの
に男は俺を一瞥すらしてくれないのだ。飛び込んだ喫茶店で、あの時あんな風に俺を見つめておきながら。まるで俺に罪があるように咎めた挙げ句、俺を夢中に
させながら。
俺は男の頭上の傘に落ちる雨だ。紫陽花を濡らす雨のようには優しく見て貰えず、存在すら知られない。もともと成就する思い
だとは俺だって思っちゃいないけれど、存在すら無視する行為は俺を気落ちさせるばかりだった。
‥‥馬鹿野郎
お門違いと知りながらついそんな恨みを俺は呟いた。
「ちょっと待ちたまえ」
呼び止められて、俺は振り向いた。
呼吸が止まるかと思った。
男が俺を見ていた。ようやく見てくれた。
「───なんですか」
しかし俺が絞り出せたのはそんな変哲のない言葉だった。
「見ず知らずの相手に馬鹿野郎とは失礼ではないのか」
「それは‥‥すみません」
「何があったか知らないが不用意にそういった──おい君っ」
俺は男の言葉を待たずにきびすを返そうとした。
自分でも抑えられない堰を切って押し寄せようとする感情。それがこの瞬間に盛り上がり不意に恐ろしくなったのだ。
しかし男はそんな俺の逃げを打つ一方的な態度が気に入らなかったらしい。
引き止めようと男の手が俺の腕を掴んだ。
「!!」
たちまちにして高揚感が俺の身体を突き抜けた。
だめだこのままだと俺は‥‥。
「放せよ!」
俺は掴まれた腕を振り解こうと激しくもがいた。
「‥っ!」
男の口から短い苦痛のうめきが洩れる。
しまった!
そう思った時には男の顔に俺の手が当たった後だった。
男の黒い傘が地面に転がる。
一瞬にして目が覚めた。
「あっごめ‥‥」
男は片方の目元を手の平で押さえ込んでいる。
おろおろと俺は謝ると、自分の傘を差し出しながら男の顔を覗き込んだ。
「‥‥大丈夫、ですか」
どうして良いか分からなかった。
柔らかそうな金の髪の間から蒼眸の片方が俺を見た。
「‥‥落とした‥‥」
「‥‥‥ェ?」
「‥‥コンタクト」
「コンタクト‥‥?」
「‥‥責任取りたまえ」
男が低く呟いた。
「‥‥‥‥」
男の瞳に俺の姿が映って見えた。
- 紫 陽 花 -
自分が何を書きたいのかだんだん意味不明に‥‥。
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