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細いグラスの満ちた水に溺れそうになりながら。 いまだ蕾は開かない。 足を止めるきっかけは何だったのか。滞在中のホテルの庭は朝靄が濃くたちこめていた。 夜明け前の静寂を色濃く残すその庭の、枯れかけの力無い薔薇の苗木がつけた最後の蕾。 樹は成長が悪かった。 景観と病原菌による土壌汚染の防止のため根元から引き抜かれた薔薇。 見えないところに打ち捨てられて数日。 死を待つばかりの薔薇の樹は葉が茶色くしなび、黄色く変色を遂げつつあった。 その最中、仲間の蕾はとうに枯れたというのにたったひとつ、まだ力を失わなかった小さな蕾。 ずっと見守ってきたのだという。 その彼の、硬く土にまみれた手の中にひっそりとある蕾。 用意されたのは高価でも、ましてや薔薇に見合った豪奢な花瓶でもない、ちっぽけな藥壜。 そう言いながら、さも愛おしそうに脹らみかけた幼い薔薇を見つめめる青年の顔は、 ひどく穏やかで嫉妬を覚えるほど。 色はおそらく白。 馬鹿な事をした。そう思ったのは手中の小壜に気がついた時だった。 いったいどんな経過でこれを手にいれたのか。すでに庭師は去った後だった。 こんな枯れぞこないの小さな蕾が到底咲くとは思えなかった。 たかが花一輪。 かといって拾われた命。 捨てる事も出来ず、結局部屋の窓辺に鎮座する事となった。 |
***咲かぬ花***
「連邦のお偉いさんも酷な事をしますな」男は写真の一枚を一枚をしげしげと見つめながら言った。
忠実な部下の言葉に頷くでもなく返事を返すでもなく、シャアは渡されたさほど厚くない書類に目を通していた。テーブルの上にも数枚のディスク、そして綴ら れた書類が写真と共に点在している。窓越しに射し込む昼時の明るい陽射しがそれらを眩しく照らし出していた。「連中はあのまま死ぬまで囲っておくんですかねェ。歳は違いますが私にも息子がいましてね、いやぁなんとも」
「だがその少年に私達は煮え湯を飲まされたのではなかったか」
そうでしたな、シャアの言葉に男が口を歪めて笑う。
戦争である。お互い様と言うのは簡単だ。
人にはそれぞれ忘れようにも忘れられない事だとてあるのだ。
時が解決してくれる。
そういうものでもない。「それにしてもまさかこんな子供にと思うと、時代とはいえ今だぞっとしませんな」
人類の半数にも及ぶ人間があの戦争で死んだ。それにもかかわらず人の命は今もって軽く、簡単に消えていく時代。たとえそれが子供であっても戦え る限り「子供」でいることは許されない。そういう状況下を指すのなら、彼はなにも特別というわけではない。
アムロ・レイ。数年前、シャアが相対したニュータイプを具現した少年。
そう、彼が特別なのは僅か一年余りで驚異的な「ニュータイプ」能力を見せ、それを戦果として現した事にある。
彼を忘れた事は片時もない。漆黒に浮かぶアステロイドベルトにいた時でさえ、時には憎しみをもって、その潜在能力に焦がれて己の血をたぎらせた。
故に自分の手の届かないところで、その末路がこうも悲惨なものだとシャアは認めたくなかった。
少年のサイド6で出会った頃の、まだ頼りない細いシルエットを思い浮かべる。大きな琥珀色の瞳が印象的だった。澄んだ眼差しに何かを渇望していた。あれは 孤独なのだ。温もりか、愛か、人としての真っ当な営みか。数えるほども生身では相対していないというのに、少年の青臭さと無垢な白さの入り混じった鮮烈な 記憶。
シャアは胸の中に込み上げる不快感を持て余していた。男と顔を合わせてから続くそれは吐き気というよりも突き刺さる刺に近い。見えはしないが触れる度にチ クリと痛むそれだ。
返事を返す気にもなれず、シャアは男の言葉を無視した。「理解出来ないものは排除する。利用出来るのなら徹底的に利用し、用済になれば躊躇いなく捨てる。自分達さえ良ければ良いという、利己主義で臆 病な頭の硬い連中のやりそうなことだ。そして古くから変わらない官僚制度の毒の一端でもある。そんな連中から独立を果たすために我々は戦ったのではないか な」
「いまだその望みは達しえず。シャア大佐。だからこそ我々は貴方が必要なのですよ。亡きジオン・ダイクンの忘れ形見」
そう言い募る男をシャアは冷めた眼差しで見つめた。そして口調も熱くなおも過去の亡霊を呼び起こさんとする気配に苦々しく口を開く。
「口は災いの元だ。無闇に口走る事は賢明ではないな。それに今の私はクワトロ・バジーナ大尉。ちがうかね」
「これは失礼しました」
シャアの声音にいら立ちを感じたのだろうか、戦々恐々としながらも、しかし我々にとっては貴方は大佐ですよ。男はそうつけ加えた。それから男は 居ずまいを正すと書類の先をうながした。
「アムロ・レイは行き先を間違えましたな。もし彼がこちら側の人間だったとしたら、それがザビ家統制下のジオンであってももう少し待遇は違った んじゃないですかね」
その男の言葉は少なからずシャアの心を捉えた。
そしてどうする?
それが本来あるべき道だとしたら、ララァは死なず、ザビ家崩壊の後は彼女と共にお前は私の側にいただろうか。
シャアは自分の脳裏を掠めた考えに皮肉の笑みを浮かべた。それがアムロ・レイにとって吉と出るかどうかは甚だ疑問であったが、決して今のような生活ではな かったはずだ。
最も、彼のニュータイプとしての覚醒は自分とララァが戦況でもたらしたものであり、彼の能力は生き残る術としてあそこまで驚異的に達したのだろう。
だとしたら、根本で自分達は大きく隔てられている。ジオンに投降したアムロ・レイはニュータイプにあらず、そして自分はニュータイプではないアムロ・レイ に目をとめる事はない。
会話が途切れると音のない室内はひどく冷めてみえた。紙をめくる度に乾いた音が静かな室内に大きく響く。
手渡された書類には彼のあまり幸せではない生い立ちから始まり、一年戦争後の英雄として取り上げられた数カ月。表舞台から消え去った現在までが簡潔に綴ら れていた。前半はシャアもすでに知るものであったが、後半は今初めてひも解くものだ。
男は頃合を見計らって再び口を開いた。「連中よほど恐いと見えますな。WBのクルーの処遇はご存知でしょう。誰も彼もぱっとしません。ことアムロ・レイに関して言えば異常ともとれ る。ニュータイプは視線ひとつで人を殺せるとでも思ってるんですかねェ。とにかく手掛かりひとつ探すにもえらい苦労でした」
政府の干渉を嫌うマスコミの一部が(主にコロニー側だ)、表舞台から彼が消え去った後もその消息を追いかけていた事。それも連邦の妨害や画策に 遇い、結局アングラ雑誌の中で誇張されたアムロ・レイが一人歩きをしていた事など、その辺りはシャアも知っていた。書類を読むと舞台から降ろされたアム ロ・レイは、秘密裏に転々と居を移されていたらしい。消息が掴めなかったのはそのせいだ。研究施設の名が連ねられているところをみると、検査と称しておび ただしくサンプリングされていたのだろうか。おそらくその中には人道的でないものも多分に含まれているのだろうが、紙面からはそれ以上の事は見出せなかっ た。シャイアン居留地に落ち着いたのは比較的最近らしい。写真の邸宅は報告によると人里離れた緑豊かな森にあり、かなりの豪邸とのこと。だが破格の待遇の 裏を返せば忌みするが、貴重なサンプルであり、かつ敵対勢力を屠ってくれる優秀な兵士を逃がしたくない、そんな上層部の欲望丸出しのいやらしさが見え隠れ する。
シャアはその秀麗な眉をひそめた。「子供の無知は可愛げがあるが大人の無知は罪だな。人は学び成長する生き物だというのに、連邦の愚鈍な高官連中はそんな事すら忘れ果てたと見え る。それでお前の部下は今も誰か一人は付いているのだな」
「ええ。しかし警備は厳重でして、これ以上アムロ・レイに近付く事は無理です。いっそ攫ってしまうってのはどうですか。そのほうが手っ取り早 い」
「攫う?」
シャアの訝し気な言葉に意外だとでも言うように男は目を見開いた。
「違うんですか?今回のアムロ・レイ探索の件はてっきりその線かと思っていたんですが。これほどの逸材を放っとく手はないんじゃないですか?今 の連邦の実態はティターンズですからな。存外アムロ・レイも我々に付くかもしれません」
窺うような視線がシャアを見つめていた。期待を込めた男にシャアは冷たく言い放った。
「もし彼が必要なら私はとうに引き入れている。ここに彼がいないのはつまりはそういう事だ。今はエウーゴに属しているこの身だが、連邦が変わら なければ、いずれは連中とまみえなければならないだろう。それにはアムロ・レイがいては困るのだよ。戦況を我々の有利に持っていくためにはより多くの情報 が必要だ。これはそのための布石だよ。それ以上でもそれ以下でもない」
果たして男はどう思っただろうか。
必要はないが、連邦にいてもらっても困る。シャアの言葉は矛盾であり、そのまま彼の迷いを示していた。
このアムロ・レイという存在を自分はいったいどうしたいというのだろう。確かにたった一人の人間のために、膨大な時間と人力を費やしたとなれば、男がそう 思うのも致し方ない事である。事実その可能性を考えなかったわけではない。もし彼が本当にこちら側についたならば、彼の戦いのセンスはこの男の言う通り、 確実に自分達の有利になるだろう。いっその事本当に攫ってしまえば、何か別の道でも開けるのだろうか。記憶に残る琥珀の瞳がシャアの心を惑わせる。「死」 そんな物騒な言葉もちらほらと浮かび上がるが、それも確信にはいたらない。
迷いの淵に立つ視線の先に一枚の写真が現れた。「これは?」
シャアが指し示す先には若い女とアムロが映る、最近のものと思われる写真があった。
ニ人は肩を並べ笑ってはいるがアムロの瞳は女を通り過ぎ、はるか先を見つめているようだ。派手な顔だちのその女がアムロの好みとは思えなかった。不協和音 が聞こえる。「それですか」
吐き捨てるように男は言った。その嘲りは連邦へだろうか。それとも全てを甘んじているアムロに対してのものだろうか。
「どうやら連中はそっちのほうも用立てているようです」
少年も今は青年になりましたからね。
ええ、一度きりです。一人として同じ女はいません。深く関わる事を恐れているんでしょう。ああ・・・・・。
その言葉に目眩を感じた。アムロ・レイ。お前はこれを守るために私の野望を砕き、ララァを殺したのか?
男が帰った部屋でシャアはソファに深く身体を預けた。ひどく疲れていた。こめかみを押さえる。
この時代、誰もが負を抱えなくては生きていけないのだろうか。
ニュータイプは人類の希望とはなり得ないのか。
部屋に点る照明に目が痛い。
知りたいと思った情報が目の前にあり、シャアは全てとまではいわないが知りたかったものを手にいれた。
しかし、それで得たものは何なのだろう。
白い紙にプリントアウトされた彼の薄っぺらな生。
写真の一枚一枚が、文字のひとつが彼の辿ってきた道程をシャアに語って聞かせる。
少年が青年期に達した事も知った。
だが。「別人だ」
写真の中の瞳は何も写してはいなかった。
一枚だけシャアの知るアムロ・レイに良く似た姿の写真があった。十代の頃だろうか。
空を見上げるアムロがいた。
その瞳には何を捕らえているのだろう?広げた両腕は何を掴もうとしている?
口元に浮かぶ微かな笑みは、何を夢見ているのだろう。「君は私をこけ降ろしてくれたが、今度は私が君を笑ってやろう」
シャアは暮れゆく窓辺に視線を走らせた。
たった今、心を苛立たせていた小さな刺が抜けたのだ。
咲いて欲しい・・・・・。
それは薔薇だろうか。
空を見つめるアムロだろうか・・・・・・。
- 咲かぬ花 -以前書いた「空に笑う」の対の話。
花(植物)は声(愛情のこもった)をかけてあげると
綺麗に咲くとか成長するとかいいますよね。
薔薇の蕾に話し掛けるクワトロ・バジーナ。
あまり見たくないなぁ・・・。