** ひかりのくに **
後
「──?」
風の流れが変わった。
穏やかにそよいでいたのが賑やかに変わる。まるで主人を出迎え、自ら道を開けようとするようだ。「サガ」
アフロディーテも気付いたのだろう。むくりと起き上がると、サガと同じくこの場所唯一の出入り口であり、風の吹いてくる中心に視線を合わ せている。
それを横目に、サガの脳裏に一人の青年の顔が浮かぶ。アフロディーテが水と相性が良いのと同じく、それは風を友とする者だ。「やあ」
そして風と共にアイオロスが現れた。
「シェステの時間に散歩か。毎日精が出るじゃないか」
「それを言うならアイオリアとミロに言ってくれ」
額に汗を浮かべるアイオロスをからかうと、彼は肩をすくめた。誰が好き好んで、といった風である。
アイオロスはサガとアフロディーテがここにいることを、風から知らされていたのだろう。仲良く並んで座る二人の、アフロディーテの無防備な姿にわずかに 目を見開いたが驚く事はしなかった。「あの二人が揃うとどこにでも行ってしまう。探すこっちは大変なんだ」
「遊びたい盛りだからね」
悟ったようなアフロディーテの言葉に、アイオロスは溜息をついた。
それを見ていて可笑しいのはサガだ。今し方まで目の前の少年がそうだったのだ。つい苦笑を洩らしてしまい、アフロディーテに睨まれる。
先ほどまでの二人のやりとりを、全く知らないアイオロスが怪訝な表情を浮かべるのに、サガは同情するように声をかけた。「大変だな」
「ああ」
アイオロスが何かを思い出すように苦笑いする。
彼が何を思い出しているのか、サガにはすぐに判った。
数年前、先の大戦の痛手からまだ抜けきれない荒廃した聖域で、サガとアイオロスは育ったのだ。
今のようには恵まれず、人も少なく厳しい生活が続いていたその中で、時間を見つけては抜け道を探し出し、師の目を盗んでは聖域の外に出、入ってはいけな い場所も覗いてきた。
どちらかといえばアイオロスと暴走するのは双子の弟のカノンの方で、もっぱらサガは心配顔で追いかけていたのだが、聖域に来たばかりの幼いシュラも巻き 込みよく遊んだものである。
アイオリアとミロもその同じ道を辿っている最中なのだ。青筋をたてて怒れというほうが実は無理なのだ。
現にアイオロスの口調は疲れたているものの、二人への怒りは滲んでない。
だからといって糸の切れた凧のように二人を放っておくわけにもいかず、アイオロスはこうして探して回っているのだろう。かつての師のようにその後はしっ かり灸をすえるのだ。
聖域に生きる者はいずれ、アフロディーテもそしてアイオリアもミロもそうやって、次の世代にこの世界の仕組みを教えていくのだ。「この近くにいるの?」
「ああ、このあたりにいるような気がする」
きっと風が教えたのだ。
「では私達も手伝おう」
「いや、それはいい」
立ち上がりかけたサガを、アイオロスは慌てたように押し止めた。
「あいつらを見なかったか、聞きにきただけなんだ。邪魔して悪かったな」
「私達がお前を邪魔に思うはずがないだろう」
心外な顔をサガが浮かべると、アイオロスは何か言いたげに、それからサガとアフロディーテの二人を交互に見返した。
「サガ、お前のその言葉、どこまでが本気なんだ?」
「本気とは?」
「‥‥‥いや、気にしないでくれ」
訝しむサガにアイオロスは首を降った。
噂には気をつけろよ、陽に焼けた顔を微かに赤らめながら、そんな言葉を残してアイオロスが消えて間もなく、彼の声と子供達の騒ぐ声がサガ とアフロディーテの耳にも届いた。
彼の勘は当ったらしい。二人は顔を見合わせ笑った。「今日はアイオロスの勝ちらしい」
「自分も遊びの対象になっている事、アイオロスは知っているのかな」
「知っている、と言いたい所だがどうだろう。気がついていないかもしれないな」
「じゃあ当分は二人のいい玩具だ」
そして二人は再び笑い合った。
身じろぎをした拍子に本の角がサガの指に触れた。
一人の時はあれほど夢中だったというのに、アフロディーテのこと、友の出現ですっかり記憶の隅に追いやられていた。今では読む気も失せている。今日一日 これでは開いても進まないだろう。仕方なしに諦める。
肩にアフロディーテの重みを感じた。「サガ、眠い」
「シェステはもう終わるだろう」
「そうだけど」
いかにも眠そうに、舌足らずな口調でなおも身体を寄せてくるアフロディーテの、乾ききらない髪の水気が、サガの衣服の表面をうっすらと湿 らせる。それはじんわりとぬるみ、やがてアフロディーテの体温を伝える。
その温もりが、忘れていた疑念をサガに思い起こさせた。「アフロディーテ」
その声に当たり前に顔を上げたアフロディーテを、おもむろに草地の上に押し倒す。
「!」
両手首を掴まれ倒されたアフロディーテは、はっと息をつめた。
それを合図にゆっくりとサガが体重をかけていく。大人の域に入りはじめているサガとの体格の差は明らかで、アフロディーテは抵抗をする間もなかった。「サガ!」
驚いて見せるアフロディーテに、サガは口元を引き結び真剣な眼差しを送る。
いつにない熱い眼差しで至近距離に見つめられ、居心地の悪さをアフロディーテは感じた。正視に耐えきれず瞼を伏せると、触れ合う場所の体温が厭になるほ ど熱かった。それなのに気配は研ぎ澄まされ、ぴりぴりとしている。
ピクリと震える。
唇に触れるものがあった。
サガの指先がアフロディーテに触れているのだ。その親密な仕草に戸惑い、アフロディーテは瞳を揺らした。「私の前であまり無防備にならないでくれないか」
「‥‥‥‥」
その言葉の持つ意味に、アフロディーテの目元がほんのりと染まった。
「‥‥‥‥」
「わかったかい?」
瞳を覗き込まれて慌てて小さく頷いた。
するとサガの気配が、いつもの穏やかなものへと変わった。目の前で絶える事のない柔らかな笑みがサガの中に戻っていく。
しかしサガはすぐには退かなかった。距離は離れたものの、覆い被さる上から見つめることを止めない。「サガ‥‥」
アフロディーテは頼りなくサガの名を呼んだ。
仕掛けたというには幼い悪戯──。
方法は、人の話を参考にした。
アフロディーテは一緒に修行に励んできた仲間の、自分を見る目が時折変わることに気がついていた。仲間だけではない。他にもサガの目の届かない所で、あ からさまな視線を投げる者もいる。
原因はどうやら自分の容姿にあるらしい。
かりにも魚座の聖闘士だ。聖衣はまだ戴いてないが力に負けるつもりはない。
だが一人であれば居心地の悪さに苛つき、この容姿にも今以上の不満を抱いたに違いない。サガがいて、変わらない優しさでアフロディーテを包んでくれる。 それが安心を与えてくれた。
そのサガが深い眼差しの中に熱いものを潜ませる。
試す真似をしたのはほんの思いつきだ。もし彼だったらどんな顔を見せるのだろうかと。
そして改めて分かった。
サガの温もりはこうしている間も、とても気持ちが良い。
アフロディーテの口から笑いがこぼれた。「アフロディーテ?」
突然笑い出したアフロディーテに、サガは戸惑うような表情を浮べた。
そのサガの唇から放した手を、アフロディーテは解放された両の手で、包み込むように捉える。そして指を引き寄せ、自らそっとキスをする。「サガ」
囁き、嬉しそうにサガを見つめた。「‥‥アフロディーテ」
くすくすと笑うその声がサガの耳に心地よい。
アフロディーテの白磁の頬に手をおけば、済んだ瞳で見つめ返された。光を受けるその眼差しは意外に強い。
こんな風にして、時折二人の間には濃密な時が訪れる。
秘密の場所から抜け出ると悪戯好きの西風が、アフロディーテの乾いた髪をぱっと空に舞い上げた。
白い衣装が眩しい。
その姿をサガは少し離れたところから見つめた。
アイオロスがあの緑の場所で、二人だけの時を過ごしている。そう見たとしてもおかしくはない。
自分とアフロディーテの事を指しているらしい『噂』があることはサガも耳にしていた。
この隔絶された狭い世界では恰好の話題であるのだろう。それを否定する気はサガにはなかった。
アフロディーテとは親と子であり、友である。そして導き手と担い手の関係だ。
しかしそれも近いうちに、別の形になるのだろう。
予感がある。
彼らの噂はやがて噂でなくなるのだ。だから否定はしない。「アフロディーテ」
サガの声に少年が振り向いた。
「おいで」
柔らかく声をかけると、広げた腕の中に嬉しそうにアフロディーテが飛び込む。
大人にはまだ遠いその身体を、サガはしっかりと抱きとめた。
今は無邪気に笑うアフロディーテが、目元を染めただけでああも艶やかになるとは、サガ以外のいったい誰が知るだろう。
もちろんこれは秘密である。しかしやがて大人になれば、アフロディーテはその名の通り、薔薇のように花開くのかもしれない。その時も出来れば傍に在りた いと思う。
アフロディーテがサガの庇護から飛び立つのは間近い。
慎ましやかに執り行われる儀式の中で、魚座の聖衣を纏ったアフロディーテは、誰よりも麗しく輝くことだろう。
ひとつの時代が終わり、ひとつの時代が始まる。
新しい世界は、こうしている間にも、すでにゆっくり動いているのだ。
end
おそらくアテナがいて、アイオロスがいて、サガはサガのままで、世界が平和な聖域のお話。
なんて幸せな世界なんでしょう・・・・。03.12.28 改稿