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いつの間にかうたた寝をしてしまったらしい。
ぬるい夜風がはたはたと薄手のカーテンを揺らしていた。
時折カーテンは青白く浮き上がり銀の波を作った。月が出ているのだろう。そのせいで室内はいくぶん明るかった。暗闇に仄かに浮き上がる調度品の影。深海の
暗い青のように沈んだ静寂が満ちていた。
床に落ちていた本を拾い上げ静かに閉じる。
本が落ちた時には音がしただろうに、気付かない程自分は深く眠っていたのだろうか。意識はまだ青い闇の中にいて、これも夢と続いているのだと耳もとで囁い
ていた。
沈黙を壊さないように静かに息を吐き、ゆっくりと身を起こす。
ソファから足を床におろした。素足に感じる大理石の冷たさに少しだけ震える。
静かだった。
風のさわさわとたてる音以外何も聞こえない。明け放たれた中庭へと続く扉から風は入り込み、夜の香りを撒き散らす。淡い月の光がそれを追う。耳を澄ませば
月の光の音までが硝子のように聞こえそうだ。
そして「それ」はそこにいた。
まただ。と、思う。
陽が落ち、黄昏が闇に還る頃、気がつくとそれは窓辺に立っていた。いつも窓辺だ。カーテンの隅からひっそりと、死人のように青白い暗い瞳でこちらを見てい
る。
月明かりに明るい窓辺がそこだけぽっかりと闇を作っていた。
気がつくと存在し、知らぬうちに消えている。
その瞳のあまりの暗さにアフロディーテは心を掴まれる。気を許したら最後。二度と今の自分ではいられない。そんな不安にいつも顔を背けていた。
それはそんなに哀しいのだろうか・・・・・。
漠然と考える。
息苦しい。風はアフロディーテの周りを舞い、夜薔薇の香りが通り過ぎるというのに。
逃げてるわけではない。けっして。
ただ・・・・。
知ったからといって、それで何が変わるというのか。むしろ知るべきではないようにさえ思えた。
余程根深いのだろう。避けてきた分、よりいっそう。日毎に濃くなる影がその証。
今の自分でいる事をそれは許さないということか。
それでもアフロディーテが自ら扉を開かない限り、それは沈黙を続けるのだろう。
「ならば来ればいい」
所詮、逃れられないというのなら。
手を伸ばす。
待っていたかのようにそれは、アフロディーテの前にするりと立った。目の前にあってさえ、それは暗かった。凍てつくその眼差しにぞっとする。
アフロディーテを見つめるそれは子供だった。いや少年。そしてそれは青年であり、そのどれもであった。
あどけなく、不安げで、悲しみを背負っている。その全て。
「それで。私はどうしたいんだ?」
目の前に立つアフロディーテをアフロディーテは見つめた。
闇に浮かぶ白い顔。髪さえも色は抜け、青白い。その中で瞳だけが夜の闇より暗かった。星はない。
アフロディーテの問いかけにそれは血の気のない唇を震わせた。
しかし唇から出たのはひゅうひゅうという風の音。悲しみのあまり、言葉さえも失ったのか。口を開くが、覗くのは闇ばかり。どうしてよいか分からないという
ように、悲し気な眼差しをアフロディーテに送った。それは何故もっと早く自分を見てくれなかったのかと、アフロディーテを責めているようにも見えた。
困ったようにアフロディーテはアフロディーテを見つめた。
「考える時すら与えてくれないのか」
答える代わりに風が哀し気に哭いた。
このまま過ぎれば良いと思っていたくせに。
「・・・・お前が私だというのか」
語り掛け、指先で触れてみる。アフロディーテから伝わるのは暗い虚無とどこまでも続く悲しみ。幼子のようにか弱く、硝子のような質感。
乱れた髪のひと筋ひと筋から慟哭が伝わる。
真っ青な海と世界を照らす光。花が美しい事も知っている筈なのに。
ああ、そうだ。それは私が奪ってしまったから。
「何を泣く必要がある」
冷たい唇に指を伸ばす。紡ぐ言葉も私が奪った。
「私がいるだろう」
そう、このアフロディーテが。
私は空が青い事も知っているし、鳥の羽ばたきの強さも知っている。幸せがなんであるかも。
そしてなによりも、お前が私ならこの私もアフロディーテ、お前。私の代わりにお前が泣くというなら、ならば私はお前の代わりに微笑もう。
「だから一緒に行けばいい。そうだろう」
お前を見捨てたかったわけじゃないんだ。
手を重ねる。
私はこんなに暖かいだろう?
心深くにお前を抱きしめ歩いていこう。
「だから淋しくはないだろう?」
私がお前を守るから・・・・。
もう震える事はない。
月の光の照り返しを受けながら、はたはたとカーテンが揺れていた。
室内を明るく照らすためにアフロディーテは立ち上がった。
影はいなかった。
end
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