コロニーの全天候を管理している気象システムが、
老朽化に伴う長年の負荷に耐えきれずついに故障した。
制御を失ったシリンダー内の天気は自由気ままに暴れだし、アムロの住む居住ブロック一帯に数日越しの大量の雪を振り落とした。
交通網は寸断、大人も子供もペットの犬も家の中に閉じ込められて数日。
小康状態になった今も穏やかと呼ぶにはいささか遠く、大粒の美しい雪と芯から凍える冷気が厚く外を覆っていた。
この思いもよらない悪天候に設備のゆき届いているはずの通信網も、心許なく途切れがちだった。
「飲めよ。身体が温まる」屋根の雪下ろしが済んで室内に戻ったシャアを出迎えたのは、アムロのご苦労様というねぎらいの言葉と、アルコールの香りの立つ温かいミルク だった。
「どちらかといえばアルコールだけの方がありがたいのだが」
厚手の防寒服を脱ぐと付着していた残りの雪が、落ちてタイル張りの床の上でじわりと溶けると小さな水たまりを作った。
「朝っぱらかい?」
傍らでからかうようにアムロが問いかけた。
「君には言われたくないな。朝っぱらから飲んでいたのはアムロの方だろう?」
くすりと笑いシャアがやり返すと、途端に彼の顔はむっとした表情に変わった。
「以前はともかく、今は飲んでないぜ」
シャアの言葉が、一人で暮らしていた頃の生活を指している事にすぐさま思い至ったのだろう。半ばむきになって、今は飲んでいないと言い張 る。
「嫌ならいいよ。俺が飲む」
そう言ってシャアに背を向けカップを片手に奥に向かって歩き出したアムロ。シャアは無言で柔らかな微笑みを浮かべた。そしてすぐさま暖かい 部屋に消えたその姿を追いかけた。
室内は微睡むように暖かった。冷えきった身体の強張りがじわじわと熱に溶けていくのが心地よい。「誰もいらないとは言っていないだろう。ありがたくいただこう」
アムロは胡散臭気にシャアを見つめた。昨夜の行為の余韻が抜けきらないのか、その姿は今なおけだる気だ。どうしようか計りかねているアムロ の姿に昨夜の情景を重ねたシャアは、面白そうににやにやと笑った。
「?何だよ」
「いや、なんでもない」
自分にミルクを差し出してくる人物がいるとは思わなかった。そんな思いをこそばゆく頭の隅に残しながら、シャアは差し出されたマグカップを 受け取ると、ありがたく頂戴すべく口許にそれを近付けた。
アルコールの香りに混じってミルクの甘い匂いがシャアの鼻孔をくすぐる。それは遠い記憶を忍ばせた。懐かしく輝かしく、ただ幸福だった頃の記憶を。苦さと 甘味が胸に広がる。
しかし、口に寄せたところではたとシャアはカップの手を止めた。「?」
ほんの僅かではあるがいつもと違う「何か」をそのカップに感じたのだ。訝し気に目の前のカップを見つめる。
するとシャアのものでない溜め息の音が聞こえた。
自分でなければ他には一人しかいない。シャアはアムロを見つめた。「悪い。手が滑って割っちまったんだ」
アムロにそう言われて改めてカップを見ると、柄や持ち手の若干の相違なのだが、確かにシャアがいつも使っているものとは違うようだ。
「割った?私が使っていたカップをか?」
責められるとでも思っているのか、反応は鈍いものだったがアムロは素直に頷いた。そしてシャアの足下に視線を彷徨わす。こんな場合は「気に するな」ただそう言えば良いのだろうが、いかにも申し訳ないという様子を見せられると、かえって愚痴の一つでも言ってみようかという気にもなってくる。
「気にしなくていい。それより怪我はないのだろうな?」
だが結局は当たり障りのない方をシャアは選んだ。
もっとも、シャア自身「気にするな」という言葉どおり、この事に対して本当に気落ちなど皆無といってよかった。もちろん形あるものが姿を失う事に対する痛 みはあるが、そもそもカップの本当の持ち主はアムロなのだ。それを彼に了解を得て、シャアが使用していただけにすぎない。あれこれ毎回違う物を使用するよ りは、ひとつに決めておいた方が都合が良いだろうという、ただそれだけの理由で選んだのであって、気落ちするというのなら、むしろアムロの方こそそうなっ てしかるべきだった。だがそのアムロはというと、貰い物だと言って処分に困っていたはずだ。彼がこの家に移り住む際に持ち込んだ数少ない持ち物のうちの一 つで、確かセットとしてシャアが今手にしているこのカップと同じ箱に入っていたと思う。
ちなみにアムロにはマイカップと呼べる大きさの違うものが二つほどある。気分や状況で選ぶというより、その時先に目に入った方を使うという至極簡単な使い 分けだ。
しかしシャアの考えている事などアムロが当然知るはずもない。シャアの言葉に明らかにほっとした面持ちだ。「天気が回復したら新しいのを買ってくるよ」
それでいいだろう?そんな眼差しを送ってくる。
今手にしているカップでもシャアは別段構わなかったのだが、アムロがそうしたいというのなら彼の好きにさせよう。
が、口を開きかけたところでシャアの脳裏にふとした思いが閃いた。
アムロはカップを新調してくれるという。
ならばこれを機に、ひとつ自分専用のカップを真面目に探してみるのも良いかもしれない。そう思ったのだ。「そうだな。その時は二人で見るとしよう」
アムロの怪我の有無を確かめながらたった今思った事を告げる。
その考えはこの先長くなるだろうアムロとの生活の中で、なかなか良いもののようにシャアには思えた。
が、アムロはといえばぎょっとしたように目を見開いた。「えっ、一人でいいよ。同じのを探せばいいんだろ。俺一人でも───」
「いや、この際だ。ゆっくり専用のカップを探すのも良いだろう」
「おい、勝手にきめるなよ。俺は承知しないぜ」
シャアにとっては良い案でも、アムロには大いに不服だったらしい。見るからに嫌だという顔をしていた。ついでに自分の手を握るシャアの指を 振りほどく。
「承知もなにも、道が復旧したらどちらにしても買い出しは必要だろう。一度で済む事ではないし、その内のどこかに時間を取れば良いだけの事 だ」
「取れば良いって、カップのためだけに時間を取れだって?家の周りの雪かきだって終わっちゃいないのにそんな悠長な事してられるかっ」
「では君は私の休暇をこの雪の中だけに閉じ込めたいのか。雪かきと消耗品の買い出しで。そして私が宇宙に出た頃、君はすっきりした表情を浮 かべてカップを買いに街に出向いているわけか」
「そんなこと誰も言ってないじゃないか。もう、話が飛躍しすぎだ」
うんざりしたようにアムロは言った。
「今度の買い出しでもいいよ。ただ二人で探す事はないと言っているだけじゃないか」
それじゃだめなのか?
アムロが言った。
尚も一人が良いと言い張るアムロにシャアは内心で溜め息をついた。
何もペアのカップを買おうというのではない。ただ選ぶだけなら男同士でも親しい者同士、けして有り得ない事ではないだろう。かく言う自分達も日常生活で入 り用な物がある時は普通に二人で買いに出るし、食事も当たり前に街に繰り出す。ただ内容がこと親密さの度合いを深めると、アムロはなかなかシャアに追従し てくれない。そしてアムロは自分からは働きかけてくれない。
自分ばかりが何故こうまでして必死にならなくてはいけないのか。そんな理不尽な思いが心の中にひしめいた。「アムロ。そんなに私との買い物は嫌か」
アムロは押し黙った。困ったようにシャアを見つめる瞳は何か物言いたそうだが、言葉にならないようだ。その様子から彼が心から嫌がっている わけではないのだというのが分かる。
シャアは辛抱強く待ち続けた。「だから、別に嫌ってわけじゃ」
ようやく言葉を吐き出した時、アムロは恨めしそうな顔をしていた。
「では決まりだな」
逃げ道を作らせないシャアの前に、アムロの抵抗は終わりを告げた。
**********
ぽかぽかと暖炉の炎が暖かい。
窓から射し込む光はひんやりと冷たくクリアなものだったが、暖炉から洩れる炎の熱が、春先の日射しのような暖かさで室内を包んでいた。
残っていた屋根の雪下ろしを二人で終わらせ、昼食を兼ねた遅い朝食を済ませてからもだいぶ時は経つ。
二人ともとりたてて話好きというわけでもなく、一度会話が途絶えると沈黙が後を支配した。その辺りは互いに承知したもので、日常での二人は音楽を聞くもよ し、部屋にこもって設計に没頭するもよし、釣でも、料理でも良かった、即かず離れずの距離を保ちながらそれぞれの時を過していた。そしてある時無から有が 生まれるように、どちらともなく再び会話が始まるのだった。
雪に閉じ込められてからも、そのリズムが乱される事はなかった。
ただ雪が止む気配を一向に見せず、いつまでも降り続くある日、シャアがこの家唯一の暖炉に火を入れてから、時を過す大半が暖炉のある部屋の一画に凝縮され つつあった。
過人が残していった、小さいが実用的に作られた暖炉の前にはじめはシャアが、やがて引き寄せられるようにアムロもここにやってきた。そこで椅子に座って本 を読み、床に腰を降ろして外を眺め、炎を見つめて各々思いを遠くに飛ばしていた。互いのグラスにアルコールを注ぎあう事もあった。
必要な薪はこの冬を乗り切れるほどには多くなかったが、このハプニングを過ごせる程度には納屋に積み上げられている。機械熱では味わえないぬくもりを二人 とも手放せずにいた。また、不可思議な熱の生き物の一時として同じ姿を形作らず、にも関わらず絶えない輝きは二人の心を魅了し捕らえて離さなかった。
そして今も暗黙の了解のもと、暖炉の側でゆっくりと刻まれる時を過していた。
アムロは伸びをして身体の凝りを解すと室内を見渡した。
膝の上のノートには幾何学な図形が乱雑に描かれ、白い箇所にはアムロの思いつきが一面書き込まれている。シャアが持ち込んできたある計画の初期プロット を、頭の中で組み立てていたところだった。出来たばかりのプロットの結晶は、脇に置いたモバイルに逐一落とし込まれていく。
一方のシャアはレポートらしき紙の束に目を注いでいる。どちらも長い事無言で各々の仕事に没頭していたのだ。
こ難しい顔で紙面に目を通しているシャアを、先に戦線離脱したアムロはしばらく見つめていた。それから僅かに視線を逸らし、その先を眺める。
アムロの視線の先には寄木細工のテーブルが壁に寄り添うようにひそりと置かれている。それはこの家に元からあったものである。が、卓上の写真と幾つかの置 物はアムロのものだ。壁に掛けられた風景画も冬の訪れる前にアムロが街で手に入れてきた。
アムロがこの場所に辿り着き、一人ここに移り住んだばかりの頃、仕事に関わる諸々と必要最低限の持ち物を除いて、その多くは前の住人が残していった物達で あり、それがこの瀟洒な家を飾る全てだった。
その頃、ここにはまだ気配と温もりが色濃く残っていた。置いていかれた物達は、去っていった家人との思い出話を朝から晩までひそひそと誰にともなく呟いて いた。静かなこの場所で声は夕暮れ時の影のように長く寂しく蠢いていた。その中に居場所を作り、一つ二つと必要のない物は片付け、アムロは少しずつ領土を 広げていったのだ。声なき声に耳を塞ぎ、そうして出来た静けさを、その頃は何よりも心地が良いと思っていた。
そんなぽっかりと空けた筈の空間に、今は少なくないアムロの所有する品が用いられ、そして飾られている。時にはその中にシャアの持ち物が気まぐれに紛れ込 むこともあった。
日追いと共に新たにアムロが集めた物の多くは生活必需品ではない。寄木細工の卓上の諸々も、風景画もなければそれでも構わない、言うなれば不必要な品物ば かりだった。それがいったいいつの間にこんなにも増えたのだろう。記憶の断片を手繰り寄せてみるものの、買った記憶はあまりない。だが近付いて手に取れ ば、これはあの時あんな風にして思い、手に入れたのだとすぐ分かる。
アムロは黙ってその変化を考えた。「この一年で物が増えた気がするよ」
静けさの中に言葉が生まれた。
「そうか」
「ああ。貴方の物は増えていないけどね」
言葉に反応してシャアが紙面から面を上げた。視線は暖炉に向かい炎を捕らえた。
「一番欲しかったものを、私は手に入れたからな」
炎の中に何を見ているのだろう。暖炉の奥を見つめてシャアが微笑む。
自分に向けられたものではないその笑みに、何故か頬が熱くなるのをアムロは止める事が出来なかった。「‥‥‥何を?とは聞かない方がいいんだろうな」
「私としては聞いて欲しいところなのだが」
「またあんたはそんな事を言う」
アムロは肩をすくめた。
つれないな。
笑いをともなったそんな言葉が傍らから聞こえた。
仕事中にはあまり気にも止めなかったシャアの確かな存在を強く感じる。
彼を成す中核を包む穏やかな波動に、彼がリラックスしているのが良く分かる。手を伸ばせば触れられそうだ。
彼もそんな風に今この瞬間、自分を感じているのだろうか。「心が落ち着くとこんなものなのかな」
照れくささにそんな言葉を口走る。
シャアがゆっくりと顔を上げた。自分に向けられる青い視線を強く意識しながら言葉を続ける。
「必要ではないが、かといって無下には出来ない物達がひとつひとつ増えていくんだ」「上手い事を言う」
「そうかい」
「ああ、そう思えるのは良い事だ」
シャアの言葉には翳りの一つも、また澱みの一点もなかった。
苛酷な世界で常に生死の狭間を行き来しているシャア。
自分でも言葉に出来ない漠然とした思いをシャアはいとも簡単に汲み取ったのだろうか。
生きている彼の言葉はアムロの中に小さな灯火を着けながら、低く静かな響きのままにゆっくりと炎に溶けていった。
静寂はここにもある。
そして安堵する自分がいる。
あの頃の、触れると冷たいガラス細工のそれではない。
それはどう嘘をつこうとも、この数日間で抗えない真実としてアムロの心に刻み込まれてしまっている。
照れたように視線を外したアムロをシャアが眩し気に見つめていた。
1 2密室といえばミステリーですが、
この話でそんなわけがない。