** ひかりのくに **
前
「サガ!」木立に茂る緑葉と下草の緑が作る壁の向こう側から、自分を呼ぶ声が風にのって運ばれてきた。サガは膝の上の古びた本から顔を上げ ると、緑の壁を見透かすようにその先を見つめた。
顔を上げずとも声の主は分かっていた。それでもそうしたのは、稀少な歴史書であるこの本よりも、声の持ち主の方がサガにとって喜ばしいからだ。
すでにに消えた声の余韻を、探すように耳を澄ます。するとふわりと優しい風がサガの前で立ち止まり、彼の訪れが近い事を告げて駆け去った。間をおかずし て木立を掻き分ける乾いた音と共に、緑の中から姿を現した少年に、サガは思わず微笑んだ。「まだ濡れているじゃないか」
「平気。すぐに乾くから」
そう言ってアフロディーテはサガの隣に腰を降ろした。
頭上から落ちる木漏れ日が少年を照らし出し、無造作に後ろに流す濡れ髪が垂らす雫を、一瞬の光にきらめかせる。
そのアフロディーテの髪には、緑の狭い小道を勢い良く通り抜けたのだろう、小さな緑葉や小枝がいくつも絡み付いている。その様にサガ苦笑した。「アフロディーテ、びしょ濡れじゃないか。それに洗ったのだろう。それでは台無しだ」
「女じゃないんだし、これくらいフツウさ」
サガの指摘にアフロディーテはあっけらかんとして答えた。本人はたっぷりと水を含んだ髪が汚れようが、服にほつれが出来ようが、 大して気にしていないらしい。むしろそれを誇らし気に、まだ動き足りないといった様子でいる。
「では紳士かい?」
やれやれと思いながら、からかうように顔を近づけ覗き込む。
「だったら尚更身だしなみには気をつけるべきじゃないかな。いつアテナがお越しになられても構わないように」
「アテナはまだ揺り籠の中じゃないか」
「たとえそうでも私たちは、人々の見本とならなくちゃいけない。アフロディーテにはとっくに教えていたと思ったけれど、まだだった かな?」
先頃降臨したばかりのアテナの名を出されたアフロディーテは、しばらく思案顔だったが、やがて面白くないといった風に薄い色の瞳 でサガを見上げた。
「‥‥‥ミロやアイオリアにはそんな風に言わないくせに」
何を言うかとサガが身構えてると、アフロディーテの口から出たのは拗ねた言葉だった。拗ねた表情がどうにも可笑しく、サガは目元 を綻ばした。
「彼らはまだ子供だ。君より幼い。だからこそ、目の前に良いお手本が必要だろう?」
「‥‥‥‥‥」
そう言われてしまうと、アフロディーテには頷くことしか出来なかった。反論も試みたが、サガを黙らせるような上手い言葉は見つか らない。
「ほら、取ってあげよう。後ろを向いて」
恨めし気に見上げてくるアフロディーテの視線をやんわりと受け止めながら、サガは髪に手を伸ばした。
「このまま乾いたら後が大変だ」
そして甘いと自覚し苦笑しつつ、絡み付く葉と小枝をアフロディーテの代わりに取り除きはじめる。
しぶしぶといった様子で、サガに向けて背を見せるアフロディーテ。サガの見せる優しさが嬉しくないわけがない。かといって、ここで素直に喜ぶのも悔しい のだろう。
こんなやり取りは実は初めてではないのだが、サガはその度に微笑まずにいられない。
伸び伸びと屈託のないアフロディーテの行動は、この年頃の少年の、よくある当たり前のものなのだろう。
しかしアフロディーテはおとなしくしてさえいれば、美しい少女と見紛う華奢な容姿なのである。もちろんそれを気にして何も出来ないというのも問題だが、 顧みない彼の行動は、周囲に納得よりもギャップをもたらすのだ。
たかが髪であっても、アフロディーテのそれは北の住人らしい色の淡く、美しい髪なのである。容姿に合わせた細く繊細な色に、サガでさえつい放っておけな くなってしまう。
奥仕えでないサガには理由など知る由もなかったが、美の女神の名が与えられたのも、彼の持つ稀有な容姿が少なからず影響を与えているだろうことは、誰も が思っていることだ。
葉を取り除きながら、指を使って髪の絡みも梳いてやる。おざなりに梳いたらしく、指はなかなか毛先までたどり着けない。これが葉でなく可憐な花であれば、また別格の風情なのだが。
取り留めもなく思ったが、しかしそう言った途端、「僕は女じゃない」と今度は不貞腐れてしまいそうだ。
「なに笑ってるのさ」
「べつに」
目敏く見つけたアフロディーテが指摘するのに、サガはすまして答えた。それでもそんな想像はサガを楽しませ、冷たい視線を浴びせ られながらも、口元に浮かぶ笑みまでは抑えることが出来ない。
紳士か?
そう聞いた時、アフロディーテは紳士でもないけど‥‥。そう小さく呟いた。サガは確かに、と内心で笑い頷いた。しいていえば彼は 戦士である。聖衣はなくともそこらの聖闘士と比べるとすでに一人前なのである。そしてやはりまだ少年なのだ。遊び盛りのミロとアイオロスを見て触発されて いるのだろう。現にこうして口を尖らす様は、とても紳士や聖闘士とは思えない。
最後の葉の一枚を取り除いた時、アフロディーテは膝の上に顎を乗せ、眠るように薄い瞼を閉じていた。
寝ている、というより何を思うのか、一人悦に入っているようだ。人にされるのがよほど気持ちよかったのだろうか、口元には柔らかな笑みを乗せている。
とろんと微睡むアフロディーテの邪魔をしないよう、サガは放っておいた傍らの古書に静かに手を伸ばした。そうしながら小さな緑の空き地をぐるりと見渡 す。
木立と下草に入り口を隠されたこの場所は、聖域の数少ない緑のひとつである。外界との境界に渡って根差した大地の起伏が激しい中にある、小さな森であ る。
葉が幾重にも重なり合い、茂っているが、ほどよい程度に光も風も入る。この時期の今の時間、ここはシェステに恰好の場所だった。
修行地で師を失い、聖域を頼って現れたアフロディーテは、はじめの頃こそあまりにも違う環境に戸惑っていたが、今ではすっかりこの生活に慣れたようだ。 サガの導きと庇護を得てからは、まるで翼を得た鳥のように、駆け足で成長を続けている。その姿には目を見張るものがあり、アフロディーテにも巣立ちの時が 訪れているのが厭でも判る。
それは喜ばしいことなのだが、出会った頃から見守り共に過ごしてきたのだ。反面淋しいという気持ちをサガに抱かせる。
カノンが「子離れ出来ないのか?」と自分を棚に置いてからかうが、こればかりはどうしようもなかった。
そんなサガの心境など、アフロディーテはまるで知らないに違いない。
愛しさのこもる眼差しで、サガはアフロディーテを見つめた。
喧騒も届かないから喋りさえしなければ、あらゆる自然の声が耳に届く。疲れを癒す時、まどろみたい時、瞑想する時、心地良い場をここは常に与えてくれる のだ。
そしてこの近くには、小さいが澄んだ美しい水を生む泉がある。
サガにとっての気に入りの場所が、緑にぽっかりと開いたこの小さな空間なら、その水場はアフロディーテお気に入りの場所だった。
彼の髪を伝う水はその泉のものだ。今もそこで熱気と訓練の後の火照った身体に、水を浴びてきたのだろう。耳を澄ませばちょろちょろと、泉の囁きがサガの 耳にも届く。
夏場でも身を刺す冷たさの水を、それが良いと彼は言う。北の国に生まれ、緑の消える凍てついた大地で修行してきた彼にとって、その冷たさは懐かしさを孕 むのかもしれない。守護星座が魚座とあれば、もともと水との相性も良いのだろう。
悦から目覚めたアフロディーテは、草地に仰向けに寝転がり、その顔に柔らかな木漏れ日を浴びていた。一応申し訳なく思っているらしく、手入れされた髪は 下敷きにしないよう顔の横に広げている。
本来なら光に反射して淡く輝くのだが、その美しい金も濡れた今は沈黙している。「寝たのかい?」
声をかけたが返事はなかった。
アフロディーテはほつれものぞく修行着ではなく、遠い昔を思わせる簡易なチュニカに着替えていた。肩からむき出しの細い腕や、裾からのぞく白い踝が白地 の衣装と相まって木漏れ日の中で涼し気だ。
濡れた身体にそのまま纏い、ここまで走ってきたのだろう。湿り気を帯びた薄衣は所々で肌の色を見せていた。びしょ濡れとはいわないが、アフロディーテは これで平気と言うのだ。
確かに陽射しは強く、木陰にでも避難しなければ動くにはまだ辛い暑さである。風もあるから乾くのは時間の問題であるのだが。無防備な肢体に、サガが目が放せない‥‥‥。
本に集中しようにも、どうにも気になって視線はついアフロディーテに向いてしまう。
もしこれが、故意にやっているとしたらどうだろう──。
髪が汚れようが、顔に痣を作ろうがケロリとしているアフロディーテである。そんな事は有り得ないと思いながら、もしかしたらと考えてしまう。期待をしてしまうのか‥‥。
聖闘士といっても、ごく普通に感情を持ち合わせているのだ。温もりを求める事はあるし、肌を求めて聖域を下っていく者もいる。そ して異性の少ない聖域では、同性と知って恋情を持つ者がいるのもまた事実なのだ。
本来なら粗雑にしか見えない仕草の一つ一つすら、アフロディーテのものとなると、魅力の一部となってしまう。惜し気もなく晒されるそれらが、人の目を惹 きつけないわけがない。
善いにしろ、悪いにしろ、多くの者がアフロディーテを見ている事にサガは以前から気がついていた。そのアフロディーテの大半を、独り占めにしているのが 自分である事もサガはよく知っている。
アフロディーテは知ってるのだろうか。周囲から注がれる視線と、サガの思いを。サガを煽る──?
企みとしては子供っぽくある行動だが、それを知って意図したのだとしたら、この悪戯を自分はどう料理したら良いのだろう。誘いに 乗ったら途中で止められそうにない。アフロディーテはおそらく、そこまで深く考えていないのだ。ではこのまま知らぬ振りをするべきなのか。
「‥‥‥‥‥」
知らぬ振りもなんだか淋しいと、サガは思った。
後 編