いつにも増して寒い夜だった。
張りつく冷気が足下から這い上がり、アルコールで温まった身体を見えない鉤爪が締め付ける。
街路灯のオレンジ色の光さえ今夜はシャアを暖めてくれなかった。
夜も深夜。
いくらあの男が物好きでも、シャアの姿を見なかったからといってこんな夜更けまではいないだろう。
そう思いながら、心は石畳を踏む足音よりも早く先を駆けていた。
voice 2
シャアは奥のボックス席に一人身を置いていた。
さほど広くもないパブは、時間を忘れた学生達で賑やかに沸き返っていた。
笑いと喧噪が所狭しと飛び交い、とうに終わったはずの集会の燻りが、燠火となってテーブルのいたる所で熱の入った討論を呼んでいた。
煙草の煙が暗い天井にゆらぎ、肉の焼ける匂いが食欲旺盛な若者達の空腹感を呼び戻す。ビールのジョッキや雑多なアルコールのグラスが次々とあらわれては、 空になって再びカウンターの奥に消えていった。
「なんだシャア。あまり進んでいないじゃないか」すでに他のテーブルで散々飲んだのだろう、白い顔を紅潮させてガルマが現れた。片手には中身の入った真新しいジョッキ、もう片手にはつまみ のフライがのっている。シャアの前にあるジョッキが空であるのを見咎めると、片手を上げてビールの追加を頼んだ。
「そんなことはない。十分いただいたさ」
これが証拠とでもいうように、シャアは空のジョッキを目許まで掲げて見せた。シャアの正面席に座り込んだガルマは、そのジョッキを取り上げ ると自分の手にあるジョッキを差し出した。
差し出されたジョッキを受け取りながら、シャアは仕方なさげに唇の端を吊り上げた。困ったようなその姿にガルマは笑い声をあげながらシャアの方に身を乗り 出した。それから笑みを潜めて、窺うような面持ちでシャアの顔を覗き込む。「君がそう言うなら何も言うまい。だが僕にまで隠す事はないだろう」
「なんのことだ」
「無視を決め込んでも、君があの男の事を気にしている事くらい先刻承知だ」
不意にガラスの割れる派手な音と口汚く罵る声があがった。しんと静まり返る店内。やがてどよめきが戻ると共に、店内は再び喧噪に埋もれた。
シャアは口を開いた。「それを知っておきながら君は私を誘ったわけだ。なかなか意地が悪い」
二人の声はいつの間にか小さなものになっていた。
周囲は相変わらず煩く、さざ波のように寄せては返すにぎわいを見せていたが、二人の座るボックス席だけは取り残された砦のようだった。「君がどうでるのか見たかったのさ」
「だったらこれが答えと言うわけさ。満足していただけたかな」
「いいや、ちっとも」
即座に返された言葉にシャアは口を閉じた。
「君の事だから素直に行動するとは僕も思っていなかったが、ここまで意地っ張りとは思わなかった」
新しく届いたビールにガルマは口をつけた。潤すように泡立つ液体を咽に流し込む。そしてシャアからの返答がないと分かると言葉を続けた。
「あくまでそ知らぬ振りを通したいようだが、君は案外顔に出やすいのさ」
「‥‥‥‥‥」
「と、言いたいところだが、本当の処は君のそんな様子は初めて見た。それだけ気にかかるんだろう?」
「聡い友人がいるというのも時には厄介だな」
「褒め言葉に受け取っておくよ」
シャアは苦笑した。それまで無言で、ただじっと相手の言葉を聞くばかりだったシャアは大きく肩を揺すると、それまでの態度を一転させた。そ して迷いが吹っ切れたように居住まいを正す。
「さあ行きたまえ。集会も終わり、お偉方もとうに帰った。心が此処にないものを、君がこれ以上ここにいる必要はないだろう?」
「確かにそうだな。役にも立たない無駄な時間を過すのは私の意に反するものだ」
「この僕といる時間よりもあの男の方が大事なわけか。妬けるな」
悔し気に笑って見せるガルマに、シャアはジョッキを持ち上げ乾杯を促した。それから残りのビールを一気に飲み干す。
「ガルマ、君はいい奴さ」
「だったらそれそろ親友に格上げしてくれてもいいんじゃないかシャア」
「考えておくよ」
鮮やかな笑いを残し、そしてシャアはパブを飛び出した。
いつにも増して寒い夜だった。
身体に羽織るだけだった外套をきっちりと着込み手袋に手を通す。マフラーをパブに置いてきた事に気が付いたが、取りに引き返す気は毛頭なかった。
張りつく冷気が足下から這い上がり、アルコールで温まった身体を見えない鉤爪が締め付ける。
街路灯のオレンジ色の光さえ今夜はシャアを暖めてくれなかった。
夜も深夜。
いくらあの男が物好きでも、シャアの姿を見なかったからといってこんな夜更けまではいないだろう。
そう思いながら、心は石畳を踏む足音よりも早く先を駆けていた。
* * * *
嬉しさよりも先立ったのは男に対する憤りだった。
シャアはつかつかと歩み寄ると突き刺すような視線を男に落とした。「馬鹿か貴方は」
いったいこの寒さに震えながら何時間も待つほどの事があるというのか。
まさかとは思ったが、本当にいるとは思わなかった。「そう言わないでくれよ。自覚はしているんだ」
それが、初めて聞いた男の声だった。
声も、そして外灯に照らし出される、立てた襟から上げた顔も意外に若い男のものだった。年を重ねた男ではないだろうという予感はあったが、ここまで若いと は。初めて見る男の容貌は、自分とさして年も違わないようにシャアには思えた。「自覚してずっとここにいたわけか」
「帰ろうとは思ってたんだ。いい加減寒いし。でももう十分、あと五分とやっていたらタイミングを無くしちゃってさ」
「呆れたな。夏ならともかく、自殺行為もいいところだ」
心底呆れ返ったというシャアの言葉に男が笑った。
「もう声をかけてくれないかと思っていたよ」
詫びれもなくにっこり笑う男の姿は少年のようだった。
男の口から白い息がふわりと中に舞う。くっきりと浮かぶその白さに、ここが寒さで凍てつく路地であったことを思い出す。一瞬男に捕われていた事にシャアは 奇妙な焦りを感じた。「ではようやく念願がかなったというわけか。それで?こんな時刻まで待つほどの用が君にはあるというわけか」
男は再び笑みを浮かべた。つい今し方見せたあどけない笑みとは対照的に、落ち着いた口許だけで浮かべる笑みだった。それだけで随分と男の印 象は変わり、シャアより大人びたものになる。その中で黒く輝く瞳だけが変わらずシャアを見つめていた。
「君に引き受けて欲しい事があるんだ」
その言葉にシャアは眉をひそめた。
実力といい、容姿といいこの士官学校でも優れた立場であるシャアは目立つ存在だった。そんなシャアに興味を持って言い寄る輩は多い。そして惑星連名に名を 連ねる名門ザビ家の御曹子の親友という立場に、媚を売る連中も絶えなかった。
やはりこの男も下らない欲望に自分を取り巻こうという輩の一人なのか。「ああ、安心して欲しい。君をどうこうしたいわけじゃないし、どうこうなりたいわけでもない」
シャアの困惑と芽生えた疑惑に気が付いたのだろう。まるで安心させようとでもいうように、この寒さには似つかわしくない朗らかな声が返って きた。
男からは媚びる者が放つ独特の甘い臭気も、浮かれた熱情の欠片も感じられない。男の視線は強かった。だがそれは冬には暖かい涌き水のように冷涼なものであ り、シャアを不快にするものではなかった。「どうこうしたいわけでも、なりたいわけでもないのに用があるのか」
シャアの声音に好奇心が含まれているのを感じた男の顔が再び少年に戻った。頷きながらどこか言いにくそうに、それでも思いきったように口を 開く。
「一日だけ、俺に付き合ってくれないかな」
「?」
言葉の意味を計りかねたシャアは、さらに先を男に促した。
「もちろんその分の謝礼はする」
「‥‥‥‥」
謝礼。
その言葉にシャアは無言で男を見つめた。
冷涼に思えた男の姿が急速に俗なものへと変わっていく。
この男に興味が無いといえば嘘になる。だが希望を聞くとなればまた話は別だった。得体の知れない男の希望を叶える気などシャアには端から無く、適当なとこ ろで切り上げるつもりだった。それでいて男を俗などというのは甚だ勝手と言うほかはないのだが、それでも眩しいと思えた男の少年を思わせる笑顔が色褪せて いくのを、シャアには止める事が出来なかった。いつしか男の姿は、人混みに入れば紛れてしまうただの小柄な男の姿になっていた。
落胆がシャアの中に満ちる。
自分はこの男に何か期待をしていたのだろうか。謝礼などと言わず、一方的な願いの方がこの男らしいというのか。聞く気などないというのに。「私には君に付き合う義務もないし、貰う権利もない」
興味を失ったかのように、シャアはにべもなく言葉を告げた。
「私より適任がいるだろう。他にあたってくれ」
男の顔が歪み、すぐさまもとの柔和な顔に戻る。男に表情に苦痛が浮かんだように見えたのは一瞬の事であり、シャアは気のせいとやり過ごし た。
一方シャアも自分の発した言葉が、思いのほか冷ややかだった事に内心驚いていた。そして居心地の悪さを感じていた。
潮時かもしれない。そんな思いがよぎる。
頼みごとなら自分でなくとも充分間に合うだろう。
いい加減この場所にじっとしているのは辛かった。身体はパブを出た時から凍え始めている。早く寄宿舎に戻り、部屋の暖かい温もりに包まれたかった。
シャアは素早く男から離れた。そうしなければ後ろ髪を引く思いは断ち切れそうになかった。
だが男も引かなかった。
はっと見下ろしたシャアの二の腕には、男の指がしっかりと絡み付いていた。肉に食い込む勢いの強さだった。
シャアは舌打ちをひとつすると振り向きざまに男をねめつけた。
人形のように無表情の顔がシャアを見つめていた。瞳は夜行性の生き物だ。その瞳の冷たさにシャアは我知らず震えた。「君は‥‥‥」
いったい何者だ。
そう言葉を紡ごうとして、シャアは男の指が剥き出しだという事に気が付いた。
裏打ちされた革の手袋をし、厚い外套のポケットに差し入れていてさえ指はかじかむのだ。それなのにこの男ときたら、何も着けない裸の手でシャアの腕を掴ん でいるのだ。シャアはこの男が待っていた時間の長さに改めて思いを馳せた。今日はさすがにマフラーを巻いているものの、そのコートが厚くない事もシャアは 知っている。そして今も全身で震えている事も。
見ているこっちのほうが寒さに目眩を起しそうだ。
鈍いのかこの男は。
今の自分はきっと複雑な顔をしているだろう。そう思いながらシャアは男を見つめた。
そんなシャアの胸中を知ってか知らずか、男は外灯の下、いたずらっぽく瞳をきらめかせた。「君じゃないとだめなんだけどな」
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