シャアの瞳の中に剣呑な光を見たと思った瞬間、激しい衝撃がアムロを襲い、その強さに彼は意識を失いかけた。「どういう言い方があるというのだ、アムロ」
気が付いた時、アムロは床に、シャアの真下に転がっていた。
倒れる際床に強く頭を打ちつけたのか、鈍痛に苛まれて身体の自由が効かない。
アムロが意識を失わずに済んだのは、シャアの言葉を聞いたからだった。氷のように冷ややかな静けさをたたえ、その実内には嵐の核を孕んでいる。
朦朧とした中でもその声は鮮明だった。「な‥にを」
四肢を押さえ込まれ、一方的にのしかかられる体勢に以前の心のない冷たい関係を思い出す。
苦し気にアムロは声を上げ、酸素を求めた。荒く浅い息を吐きながら、霞む瞳でアムロは頭上に覆い被さる影を睨みつめた。
そのアムロを射し貫くような勢いで、鋭くシャアが見下ろしている。「君は、私が平気でこんな事を口にしていると思っているのか」
シャアの常なら深い声音は押し殺したがために硬く強張っていた。同時にシャアの長い指が肩にかかる。
「ッ‥‥」
「私がどれだけお前をっ───」
言葉は続かなかった。
さすがのシャアでさえ感情の昂りを押しとどめる事がかなわなくなったのか、それとも他の意図があってのものか、不意に言葉は途絶え、ぴりりと室内に張り詰 める空気だけがより強く二人を取り巻いた。
ぎしり、と感情そのままの手加減無しの指先は、シャアの重みと共にアムロの肩に食い込み、なおも責め立て続ける。
始めのうちこそ痛みに暴れもしていたアムロだったが、あまりの痛さにしまいには声を出す事すらままならない。呼吸でさえ忘れてしまいそうだった。
放して欲しい、放してくれ。
言い方はどうでもいい。ただそう言えば楽になれるかもしれないものを。
だがアムロにはそのどちらも口に出来なかった。
こんな時ですら、いやこんな時だからこそなのか。
シャアに自身を託せない。
そして痛みを切り離した精神の奥深い場所では、これこそ自分達の関係に相応しいと思う自分がいることをアムロは感じていた。「あいかわらず強情な男だ。忌々しいほどにな」
しばらくそんな状態が続いた後、いくぶん冷静さを取り戻したのか、肩にかかる指の力が弛みをみせた。シャア自身はどこまで自覚を持ってやっ ているのだろう。アムロには分からなかった。ただ肩の苦しい戒めがほどかれた事に束の間の安堵を味わう。
「アムロ。まさか君は私の思いが、ただの恋情だけで成り立っているとは思ってはいまい」
翳りを潜めたその言葉に、身体の強ばりを解いていたアムロははっとしたように頭上のシャアを見つめた。
「な‥‥にを」
言いかけていた言葉を飲み込む。
身体はこんなに近くにあるというのに、見つめるその先でシャアが自分を捉えていない事に気が付く。
今の彼はその青い瞳でここには無いものを見つめていた。その瞳の暗さに、彼の意識がどこに向いているのかアムロは理解しないわけにはいかなかった。「私は、‥‥を失った痛みを生涯忘れないだろう」
シャアの言葉に息をのみ、身を強張らせる。
「過去を引き摺り続ける私を、お前は馬鹿な男と笑うか」
「‥‥‥‥」
「だがこれだけは言っておく。上手くいく筈だったものをことごとく潰したのはアムロ、お前だ。あの時の口惜しさが消えたとでも?お前と比べ られ、出来損ないのニュータイプと呼ばれる事の屈辱がお前に解るとでもいうのか!」
「‥‥‥‥‥」
やがてシャアの瞳が再びアムロに焦点を結んだ時、明らかな怒りの色をアムロはその中に見つけた。
震えているのは彼の指先だけだ。だが、そうやって冷静さを保とうとすればするほど冷ましたはずの感情は昂らずにいられないのか、シャアの全身が激しい感情 の波に晒されているのをアムロは空気の中に感じていた。「私の誇りを奪ったのはお前だ。アムロッ」
アムロの瞳から涙がこぼれた。
いちどあふれた涙は留まりを知らず、目尻を伝って床へと落ちる。
静かにあふれて流れ続けた。
確かに憎しみでぶつかった過去もある。
二人で暮らし始めた今、感情がただそれだけならこれほどまで心が穏やかになるはずがなかった。その前にこんな生活が始まることもなく、また続くはずもな かった。
思いの色が一つでないことはわかっている。
しかし‥‥‥‥‥。
透明な悲しみの沈黙が二人の間の時を止めた。
意識の拡大が急速に起こり酩酊感の中、無意識の扉が開かれる。
あんたは俺を憎んでいるのか。
シャアの言葉はアムロの心に深く喰いこみ、きしむ痛みを生んだ。
俺達を繋ぎ止めるのは、やはり最後は憎しみなのか。
その方が私にとってははるかに楽だったろうな‥‥。
はけ口のない思いを抱え続けるシャア。
取り乱すまいと自身を律するシャアの頑な姿。
そのけして人には触れさせない姿が、一瞬の邂逅の間にアムロの中に飛び込んできた。近く、遠く、アムロに触れ、その触れた箇所ひとつひとつの連鎖する細胞 が、逐一反応してざわめき立つ。
シャアは静かに身体を引き起こした。
そして完全にアムロの上から退くと立ち上がり、弾かれたようにすいと離れる。
その際一度だけアムロを視界にとらえたシャアだったが、疲れたようにその視線を剥がしたその後はアムロに視線を合わせようとはしなかった。
おそらくアムロの肩にはくっきりとシャアの指の痕が残るだろう。痛みと共に当分は消える事もないだろう。だが今のアムロにはそれを言及するだけの力も気力 もなかった。
シャアの身体の温もりが消えていくのを待ってゆっくりと起き上がった時、乾ききらなかった涙の一滴が頬を伝った。シャアがもう自分を見ていないのは分かっ ていたが、図らずも涙を流してしまった腑甲斐無さに親指の腹で強くそれを拭う。「憎いのかと聞いたな。私はお前が憎いのか‥‥‥愛しているのかわからん」
床を見つめながらその声を聞く。
それでも私はお前を失いたくないと思っている。どのようなものであれ、常に私を感じさせたい。
滑稽なほどにお前の機嫌をうかがい、どうすれば心を留められるのかと──、
シャアはそこで笑った。顔こそ見えないが自嘲めく乾いた笑みだった。
「──お前を私に寄せてくれるのかと、日々そればかりだ」
「‥‥‥」
「感情というものは時に裏腹だ。その時々によって憎しみにも愛にも成りえる。変わらないのはどちらにしてもアムロ、お前に対する執着だ」
笑みはすぐに消え去り、そこに表れたのはアムロに半ば背を向けるようにして立ち、苦し気に葛藤する一人の男の姿だった。
「まったく、我ながら浅ましいほどの執着だ」
そう吐き捨ててからシャアは暖炉に近付くと身を屈め、放っておかれて小さくなってしまった炎に新たな薪を与えた。アムロはその背を視線で追 いかけた。
「シャア」
その背中に声をかけてみたものの、アムロには次の言葉が見つからなかった。なにか言葉にしてみても、今はただ虚しいだけだと、薄っぺらい紙 のようにしかならないだろうと感じる。
「憎しみや恨みつらみでここにいるのではない。ここまで来てそんなことでお前を、抱けると思うのか」
私は‥‥‥お前になりたかったのかもしれん‥‥‥。
薪に火がつき、勢いよく炎が燃え始めた。静けさの漂う室内に、炎の輝きだけがまぶしく輝いていた。「私は‥‥‥、お前が欲しい」
その逃れられない事実が、また私にお前を憎ませる。
それきり言葉は途絶えた。
欲しい‥‥‥。
と、シャアは言った。
唇を通した言葉ならいくらでも飾る事も出来るし甘い嘘も囁ける。
だが、言葉はどちらでもなかった。
口を通して語られた真実であり、そのどちらでもないからこそ、シャアの言葉は彼の心の吐露より、よりいっそう強くアムロに響いた。
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