一歩一歩足を踏み入れるほど辺りは緑と花のむせ返る匂いに包まれた。
南国の蝶がひらひらと、吹けば飛ぶ儚さで舞っている。
木々の派手に揺れる様に何事かと頭上をあおげば、極彩色の鳥が大きな翼を振るっていた。

「なぜ私を」

初めて訪れると言う割には確かな足取りで男は歩き、ひときわ濃厚に緑の茂る一画にシャアを導いた。

「どう言えば君は素直に受け止めてくれるのかな」

男はしばらく考える素振りを見せていたが、やがて結論に達したのかまっすぐシャアを見つめた。

「同じ匂いがした。俺としてはそんなところかな」

「期待させた割には、随分曖昧な答えだな」

「そうか。俺達の間ではそれで充分通じたんだぜ」

『俺達』そう言った男の瞳はシャアを通り過ぎ、空を舞う蝶を掠めてガラス越しの白い空に移された。
その声は思い出を懐かしんでいた。




voice 4



少年という話だったが、室内に入ってみると実際に眠っているのは若い男だった。
シャアより僅かに年上か。少なく見積もっても年下ではないだろう。見た目はシャアともあの男ともさして変わらない。
白い壁に白い天井。眠るベッドもシーツもそのパイプすら全てが白い。無機質の白い世界に守られて、あるいは閉じ込められて隔絶された世界の中を眠り続けて いる。
痩けてはいるが随分と整った容貌だ。そして昏々と眠り続けるその姿は穏やかと言っても良い。
しかしその顔はまるでこちらの世界の悲喜劇など知らなといった風に、シャアが室内に足を踏み入れても微動だもしない。陽に晒されない血の気の少ない白い 頬。むき出しの腕に残る、そこだけ色濃い点滴の針の後。その姿をシャアは見つめて佇んだ。
あの男と似ている。
どこがどうとは言えないが、それでもそう感じた。
男と同じ気配を微かに漂わせるこの青年が話の中の『彼』なのか。





 * * *




シャアの前に男は姿を現していない。
男との昼日中の邂逅は一度きり。あの公園での出会いが最初にして最後の別れだった。
半年に及ぶ不可解な関係の末にようやく正面きって言葉を交したというのに、それを思えば結末はひどくあっけないものだった。
しかしもとが日常の隙間に吹いた風なのだ。確かに失望を味わいはしたが、終わってしまうとそんなものかと妙に気持ちは醒めていた。所詮人との出会いと別れ など、多くがそんなものなのだろう。
そして男が二度と現れないと分かると、その間の記憶も濃い夕闇の残り香だけを残して急速にシャアの内から遠ざかっていった。ましてや春の訪れを待つ、日ご とに光量を増している今ではなおさらの事。最近では顔すらシャアの記憶から外れようとしている。
ただ最後の言葉だけはいつまでもシャアを捕らえて放さなかった。

───最初に謝らなくちゃいけないな。

その言葉を皮切りに男の話は始まったのだった。

───俺の本当の望みは別にある。

シャアが生まれる前から頭上に広がる星々を渡っていたという男。
それこそごく普通の人間では行く事の叶わない、遠い星の世界まで覗いてきたと言う。
しかし話と言うには男の語る内容はあまりにも削ぎ落とされ、要所は故意に省かれていた。従ってその意図はシャアですら容易に掴めずにいた。
その中で初めて第三者が男の口を借りて現れた。

──俺は救いを求める手すら取ろうとしなかった。そんな俺をあいつは理解し、そして許したんだ。

時期外れの季節と暑さ。
偽物の世界の中で、本物の汗がしっとりとシャアの額を濡らしていた。
何故私を──。
何故自分を選んだのか。
先ほどと同じ疑問を口にしたシャアに、今度の男の答えは明瞭だった。

「言ったろう。君は同じ匂いがする」

男が言う同じ匂いとは、男と自分ではなく、第三者と自分だという事をその時シャアは知った。そしてこの自分を通して男がその相手を見ている という事も。
今まで聞いてきた言葉の中には誇張も卑下も無かった。だからこそ一定の距離を置いて語られる言葉の端々から、男がかつて『何か』によって痛みを受け、今も なおそれが癒されていない事も知った。
その中心にいるのが『あいつ』なのだろう。
二人の間に横たわるしがらみ、いや絆と呼んでも良いそれは、シャアの自尊心にささくれのようなひりつく痛みをもたらした。
第三者に対する申し訳なさが、半年にも及ぶ不可解な行動を男にとらせていたのか。
シャアを身替わりにする事で男は救われようとしているのか。
男をこんな行動に駆り立てた『あいつ』とは一体何者なのだ。
見えない相手に対する強烈な嫉妬と、こけにされたという不愉快な思いがシャアの心を捉えた。
今もってその意図は掴めないがこの男に少しばかり心を開いた自分は、そんな二人の間の出来事に利用され、振り回されていただけなのか。
冗談ではない。
男はシャアの心痛など知らぬ気に言葉を続けた。

「本当は他にも頼みたい事はあるんだが‥‥。でもそれは相手が違うからな」

妹が死んだ、そう言って男は寂し気に笑った。その顔が一気に老け込み、一瞬だけ苦痛に歪んだ。それはシャアが初めて見る、男の隠しきれない 感情の吐露だった。

「‥‥‥‥」

かつての宇宙航行といえば冷凍睡眠装置で数十年から数百年を眠り、恒星船で星から星へと移動するものだった。そんな時代が長く続いた後、超 光速航法論がAIによって生みだされ、以来光の早さに追いついた人類は星から星ではなく、銀河と銀河の単位にまでその域を広げてきた。今では特権階級以外 の人間も簡単に宇宙旅行を楽しめる時代である。
しかし一歩宇宙に出てしまえばやはり時の流れには歪みが生じる。
何百、何万光年という星の間を行きする男と違って、たった一つの星を選んだ彼女は、いつしか男の年齢を遥かに追い越してしまったのだ。
光の早さを手に入れる以前の、宇宙間をゆっくり移動する恒星間航行では、母星を離れるという事は家族との別れも意味していた。行きと同様に冷凍睡眠を繰り 返して帰ってみれば親兄弟はとうに死んで荒れた墓標となり、世代変わりも当たり前だった。双方が宇宙に出ていればなおの事、互いが再び出会う確率は低かっ た。
それと比べたら最期のひと時を共に過ごせたというのは幸せと言っても良い。
だがそれを男に言う立場にシャアはなかった。第一そんな事は実際に宇宙に出ている男の方が良く知っているはずだ。
一瞬とはいえ、取り乱した事を恥じたのか男はバツの悪い顔を見せた。そして自分で誘っておきながら、ここは暑いとぼやいた。

「君に会って欲しい人がいる」

「ようやく本心が出たな。それにしても随分まわりくどい事をする」

「仕方ないだろう。君は取りつく島もないし、俺も悩んでいた。第一これは内緒なんだ。あいつはお膳立てされるのが好きじゃないからな。それ に──」

その顔に先ほどの悲愴さはすでになく、そうして笑っている様は夜毎に見せた闊達な男のものだった。

「──あいつの隣はずっと俺だったんだぜ。その場所を奪われるのを指をくわえて見てろっていうのか?俺だってそこまで親切じゃあない」

真摯な瞳がシャアを静かに見つめていた。

「君が俺より近い位置に立つのを、黙っていられる筈がないだろう」

夜毎見せていた男の顔は、ただ寒さだけに震えていたのか。

「‥‥‥‥」

「彼に会って欲しい。それが俺の本当の頼みなんだ」

───俺はもう帰ってこないんだ。












 * * *




眠っているとは聞いてないぞ‥‥‥。

男が一枚上手だったのか、それともシャアが迂闊だったのか。
その日一日青年が目覚める事はなかった。
いや、おそらくこの先も青年が目覚める事はないのだろう。
彼はなんらかの理由から、この現実世界から心を手放したのだ。






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