voice 5




夜半から降り続いていた雨がその激しい雨足を解いたのは、長い夜が明けてからだった。
空はまだ重苦しい雲にどんよりと覆われていたものの雨が完全に降り止み、昼に近付くにつれ澄んだ青い色が雲の切れ間切れ間に覗き始めている。
冬の間は寒々しかった病院の白い壁も、緑が増えるにつれて次第にその冷たさを柔和なものに変えていった。春の最初の花が開くと華やぎが生まれ、今では患者 の心を慰める花が色とりどりに咲いている。
冬枯れの季節にはいつになく他人に入れこむシャアを面白そうに揶揄していたガルマも、ここ最近は口をはさまなくなった。時折物言いた気な視線を送ってくる ものの、彼は静観を決めこむ事にしたらしい。呆れ果てたのか、興味を以前程感じなくなったのか、それとも公私の忙しさにさすがに構っていられないのか。
やましさを感じる謂れはないのだが、しかし人の目を気にしなくても良いその事が幾許かの安堵をシャアに与えていた。
ガルマ同様シャアも暇ではない。
年も明けいよいよ最後の学生生活も終わりに近付いてきている。
表向きは学校視察という名目ではあるが、優秀な士官を手中に引き抜こうと、それとなくシャアに話を持ちかけてくる軍部の人間も一層増えた。本人の意思に関 わらず、あと数カ月の後士官学校を卒業すれば、候補生達はしかるべき上官に付き従い任地に旅立たねばならない。その場所はこの星系内かあるいは遥か彼方の 惑星か。近い将来の事だ。
多くの士官候補生が抱え持つ開放と期待と予感と恐れ。その最初の一歩が今後の道を大きく左右するとあって、中には今から神経を尖らせている者もいる。しか しそんな彼らを笑う事は出来なかった。多かれ少なかれ彼らと同じものをシャアも持っている。一日も早く今の境遇から抜け出したいと願うシャアこそ失敗は許 されないとむしろ強く感じていた。
しかしその一方で心を裏切るような行動をシャアは毎週のようにこうして行っているのだ。
やましさは他人ではなく、言い訳がましく心に言い聞かせる自身に対するものだった。
奥行きのある建物のアーチが続く白い回廊を、シャアは一度も人に出会うことなく奥に向かって歩いた。
やがてすでに見なれたものとなった乳白の噴水のある庭が姿をあらわす。そこに生える夏には木陰を作り出すだろうポプラの木立も下生えの草も、先日訪れた時 よりまた一段と緑の量を増やしたようだ。雨が落としていった大量の水分が花と緑を潤わせより瑞々しいものにしている。
この庭の最も奥の静かな棟に青年の病室はあるのだ。




今さっき点滴が終わったらしい。
青年のむき出しの腕には真新しい点滴針の痕が生々しく残っている。繰り返しの行為に骨ばかりの白い腕の中でそこだけ変色している。
ベット脇の椅子に座り、声をかけるでもなくしばらくその顔を眺める。前回もその前もその更に前にも繰り返してきた行為だ。
シャアがここでやる事は何一つない。
擁護者がいるのか、入院も含め一切に関わる青年の費用や負担は誰かが担っているらしい。シャアがする事といえば唯一あの男の会って欲しいと言う願いを叶え るだけであり、それも終わった今ではシャアはお払い箱といってもよい。
しかしシャアはそれを良しとしなかった。たとえ日参したとしても、青年が目覚める奇蹟が起こるとは思えなかったが。
では何故飽きもせずこうしてここに来てしまうのか。それこそ分からない。
シャアには妹がいる。
ただ一人の身内である彼女はこの軍設病院近くにある市営病院に入院していた。初めは長きにわたって入院し続ける妹の見舞いついでに比較的近い位置にあった この軍設病院の青年を訪ねていた。ところがいつの間に逆転したのだろう。妹を見舞う回数よりもここに足を運ぶ回数の方が増えている。
自分の不可解な行動に対する疑念は募る一方だった。しかしなによりもシャアの心を苛んでいたのは、ここへ来る回数が妹のそれよりも多い事への後ろめたさ だった。

(‥‥‥‥)

自身の心から目を背けるように、シャアは視線を青年の枕許に移した。
質素だが清潔な硝子の花瓶には今日も花が活けられている。
その花だけが、この部屋の中で唯一生命力を発していた。
青年はやがて老い、このベッドで朽ちていくのだろうか。それとも姿はこのまま、ついに殻から抜けだせなかった蝉のように、その内だけが干涸びていくのか。
見かけはシャアとさほど違わない年齢である。このような姿になりさえしなければ、その整った容姿で今頃はシャアと同じ時の中を生きているのだろう。そして 二人は一度も交差する事ない。
窓ガラス一枚隔てた外界では緑が天を目指して競っている。花は咲きほこり、近付けば小さな虫達が同じく生を謳歌しているにちがいない。世界では目に見えて 生命が息づき始めたというのに、ここだけがぽつんと取り残されていた。
いつもそこにある花。
シャアの代わりに、見守るように、語りかけるように咲いている。
目覚める事のないかもしれない青年の為だけに咲く慰めの花。
定期的に取り替えられているらしく、シャアは花が朽ちたところを見た事がなかった。先週末には試験があり、今日は平日の予定外の訪問だった。さすがに花の 盛りを過ぎているものの、それでもその命はまだ終わっていなかった。
豪奢な花より一貫して優しい花が多い。
差し入れた人物の人柄が見えてきそうだ。
単純に考えれば、担当の看護師あたりが取り替えていると見るべきだろう。しかし毎週の事である。いくら特別室だからといってそこまで一人の患者にするだろ うか。確実なのはこの青年と親しい誰か。恋人、身内、あるいは親族。
残り香のように、あまりに微少で気のせいだと思ってしまえば、本当にただそれだけの何者かの気配を、時折シャアは感じる事があった。
そして必ずその時思い出すのはあの秋から冬にかけての夕闇の記憶。
しかし似てはいるがあの男ではないのだ。
先日流れたニュースで、フォーマルハウト星系に向かっていた連合軍艦隊は敵の部隊と遭遇。激しい戦闘の末連合軍は敗北、壊滅状態と伝えてきていた。そこは 最も戦闘の激しい星域のひとつである。救援が駆け付けたとして多くは手遅れなのではないか。この作戦を強く押していたのはこの星系でも名の知れた政治家と その党だったが、もともと今回の作戦は無謀との声が高かった。噂ではガルマの姉、キシリアを大将とした部隊に対抗してのものとも聞いていた。反対をおして の大規模な作戦の失敗はその政治家と党の失脚解散で償われるのだろう。失われたものの代償としては安すぎるものであるが。

(‥‥‥‥)

あの男は、穏やかな微笑みの下で終わる事のない長い戦いに倦み疲れていたのか。
おそらくこの青年はこうして廃人になる前は、男の良き理解者だったのだろう。それを失い、また妹まで失った。
しかしあの男はいったい何者だったのだ。
ここへきてまた疑問がわいた。
今では思い出すのも難しい男の顔だったが、彼は妹を老衰で失う程長い期間戦争に従事してきていたというのか。そして生きてさえいればあの若さだ。さらにこ れからの長い時を戦いに費やしていたにちがいない。長い航路を要する場合は今も人工冬眠装置を使う。そこに光速移動という移動手段を加えれば時間を単純に 計る事は出来ない。しかし時間をこの惑星で捉え、また宇宙に散らばる人の寿命を平均百歳とするならば、あの姿の時点で男はとうにそれを越えている。そんな 人物をシャアは知らない。いるとすればそれは軍の中でも‥‥‥‥。

(その同じ道を、歩もうとしている‥‥‥か)

男と自分の道では当然差違はあるが進むのは同じ世界。
幼少から付いてまわっていたザビ家と亡き父ダイクンの名ともようやく縁が切れる。
大きすぎるその名の全てから逃げられるとは思わないし、軍に入ってもやはり二つの影は付き纏うだろう。それでも実力でのし上がればシャアはシャア・アズナ ブル一個人として己の道を掴みとれるはずだ。

(お前のせいではないのだ)

妹は彼女自身の高額医療費を賄うためにシャアがこの世界に入ると思っているようだ。
そうではない。全ては解放されたい自身の為なのだ。
空気が動いた気がしてシャアは視線を動かした。
その先にある青年の顔は相変わらずぴくりともしなかったが、気が付けばうっすらと汗をかいているようだ。
外は陽が差していた。冷たい雨の降る昨夜は肌寒くもあったが、太陽の出現によって気温は上り始めていた。大地から放出される水蒸気が蒸し暑さを生んでい た。窓は開いていたが風はそよとも吹かなかった。
空調もこの季節には効いていないらしい。
血の気のない白い頬に長い睫が影を落としていた。
生を手放さなくてはならなかったこの青年は、もう夢すら見る事はないのだろうか。
額の汗を拭おうとシャアは青年に手を伸ばした。

「何をしてるんですか」

シャアを咎める険しい声が背後から聞こえた。それと同時にシャアの微かに知るあの気配が流れた。






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